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【近藤鍼灸院の健康新聞】㉓「がんと命 メッセージ」

2019年(令和元年)6月25日 火曜日の愛媛新聞に、同名タイトルの記事が載せられていた。取材とライターは、以前、編集委員をなされてた女性記者。以前にガン・シリーズの連載記事を書いてた方で、16年前の私の記事も書いた女性。

今回の記事は講演会で話された内容紹介で、ガンを経験した外科医の方の話と、広島在住の作家の方が奥さんをガンで亡くした時の闘病記の紹介。

がん闘病記は、古くて新しい話だと思う。ガンに限らず、難病や多くの医師ですら名も知らぬような病気の闘病記となると、是非とも公にして欲しいと思う部分がある。黙っていたら、大袈裟だが人類の存亡に拘わる事に成るかもと思える部分がある。SF映画じゃあるまいし(笑)。

◆度々で済まないですが、[私の甲状腺機能減退症]の話。この病気のせいで肥満気味だが見た目が元気そうな割に、常に「シンドイ」って言葉が自然に出てくる位に、病的な倦怠感を感じていたのだが、素人ばかりか医師にでも見落とされ、「痩せたら治る」的な発言をされ続け、其ればかりか「甘えとんジャ‼」「余裕があるからジャ‼」と言われ通してきました。悔しい事に‼ でもね、この「シンドイ」って症状、「甲状腺機能減退症の症状」の一つでもあるんですよ。

大学に進んで2年目、春先に起こっていた原因不明の微熱と病的な倦怠感で医師に診て貰う事にした。だが俗に言う何人もの町医者に診て貰っても「太り過ぎ。痩せたら治る」的な事を言われ続けたから、研究機関でもある大学病院へ大きな期待を込めて行ったのだが、残念な事に町医者どころか素人以下の診察・視診しかでき無い医者で、最後はまだ19歳未成年の私と、40歳半ば過ぎの医師と診察室で怒鳴り合いの喧嘩になった位でした。

理由は、「毎年春先に成ると、原因不明の微熱が続き、平均的には通年だが春先の同じ頃に病的な倦怠感が出る」と言ったところ、その医師は話を聞いただけで「そんなの痩せたら治る。それでは‼」と言っただけで退室しようとしたから、「先生、待って下さい。検査も無いんですか?」と聞くと「検査か~」と言って検査依頼書を取ると印を二か所付けた。チェックは糖と蛋白の尿検査のみ。思わず「コイツ、馬鹿か‼」と思いましたよ。それでも尿を取り検査室受付へ出すと、「4日後に来い」と言うから、その日は帰った。

そして4日後、午前中の授業を休み名大附属病院へ行くと、「検査に異常が無い。だから、此処でする事は無い。其れでは‼」と言って再び再室しようとしたから言いました。「他に検査は無いんですか?」と聞くと、「此処でやった検査以外、検査は何も無い‼」と言って椅子から立ち上がった。この時に想ったのが、「最近の医学は発達したと言われるのに国立の大学病院で、検査と言えば尿検査で糖と蛋白を調べるだけの能力しか無いのか!!」と思いましたよ正直。

「チョット待って下さい‼ この底シンドイ倦怠感、何とか成らんですか‼ どうしたら良いんですか‼」と聞くと、「そんな事、自分で考えろ‼」と叫ぶように言うと、自分が座っていた椅子を蹴り飛ばして、診察室の外へ逃げるように走り出たですよ。側に居た看護師は下を向いたまま器具の整理をしていたが、医師が逃げ出してから自分も診察室を出たのだが、出入り口で会釈をして電灯をけして出て行きました。私は、薄暗く成った診察室へ独り捨てれて呆然としてましたよ。

結局、余りの出来事に何をどうするかも解らぬままアパートに帰ったが、心配したした格好の大家が「どうでした?」と聞いたから事情を話すと、「貴方、何か要らぬ事を言ったんじゃ」と言うから、そんなオナゴを放っておいて部屋へ帰りました。そして、翌年の春、医師も解らぬ体調不良で大学を辞め、鍼灸学校へ入学して今の私が居る訳だ(笑)。で、結果的に自分の病気治療には正解。

「何故、この甲状腺機能減退症の話を長々書いたのか?」。この名古屋大学附属病院の医師の対応と、それ以前・それ以後に掛った医師の対応がほぼ同じ。ただ違うのは、怒鳴り合いをしなかっただけ。そして素人の人々の無責任な言動。「良い体格して元気そうなのにシンドイって、医者にも解らん検査でも解らんって、甘えとる証拠じゃ!! 余裕がある証拠じゃ‼」と、全員とは言わないが、私に妬みを持った人のほぼ100%の人が言いますし、車椅子の障碍者にまで色々と言われる始末。マァ当たり前か。医学知識も無く臨床経験も無い弩素人に、自分病気すら真面に知らない輩に理解しろと言う方が無理‼ 高度な医学知識も多くの臨床経験のある何十人の医師に診て貰って、結局、理解されなかった位だから。

私の甲状腺機能減退症が解ったのは、名大附属病院の馬鹿医者と怒鳴り合いの喧嘩をした1年後、鍼灸学校に年上の薬剤師が居て、普段から私の「シンドイ」を聞いていた関係で心配し、色々と調べた結果、「粘液水腫」が解って治療などヒントをくれたが、どの医療機関で診て貰って「粘液水腫」の話をしても無視され続けた。

資格取得後に勤務していた縁戚関係の病院でも無視され続けた為、病院を辞める直線に評判の良い医師に診て貰ったが駄目だった。で、友人の薬剤師が調べてくれた「粘液水腫」の話をすると、初めてその血液検査をしてくれた。結果は、「こんなに酷い数値が出るとは思わなかった‼」と言う次第。

だから、この結果を聞く迄の20数年間、医者に理解されず見放され、心無い素人の罵声・罵倒にやられ、「結局、誰にも理解されない症状に苦しみ、手遅れ状態に成るまで誰にも理解されず、最悪、死んでも理解されないだろう」と、我が命を諦めていた部分もあるのです。冗談では無く‼ 腹が立つのは、自分で「首周辺の、何でも無い軽い原因が元‼」とまで解っていながら、医者が無理解のままでした。

結局、この事実がトラウマに成り、一言で言えばガンの症状が色々出ていたのに、医者に診て貰っても、「そんなの痩せたら治る‼」って追い返されるばかりと思い込み、病巣から出血して貧血を起こしパニック症状も出ていたし、会の総会で飲酒した時に気分が悪く成りトイレで吐くと、血液を吐きましたよ。それでも病院に行こうとは思わなんだです。

この「甲状腺機能減退症」一つで、此処まで心身をボロボロにされたら大事な我が命も諦めますよ。悪性の医師不信に成ってるのに、家族は「医者に掛かれ」と言うが、「痩せたら治る」と言い続けられた私の気持ちを、家族でさえ理解してなかったですね。「行くだけ無駄‼ 死にかけないと無理!!」とまで思ってたんだから。◆

6月25日付けの記事では、「色々と幸せな患者さんだったね」と思える。私の場合、闘病中に付けてたメモ日記を元に、「私はガン患者」って本の原稿を書いた。某大手出版社に連絡をし、原稿のコピーを送ったら、通る事すら難しいと言われる編集会議に受かりましたよ。でもね、16年前、200万円と言う個人負担の金が準備できず諦めたが、10年程前に「安価な方法で」と連絡が来たが、それでも150万円ほど。それで断念。よく言うジョークに、「億単位の宝くじでも当たれば、好きなようにしてあげる」(笑)って。

最近は「ガンも治る病気に成った」と言われる。確かに、16年前と比べても、治療の選択肢が増えた部分と。ガン・サバイバーの発言やらとで、積極的な検査を受け、積極的な治療を選ぶ患者さんが増えた事が大きいと思う。

16年前と言えば、「ガンは死に病」と言われてた時代。某日水曜日、紹介状を持って県病院へ行き、内科の医師に掛かった。その段階で、ガンと言われた。胃カメラを撮ると言われ予約と成った時点で、場合に因っては胃カメラと成るかも知れないと予測。前日から絶食している事を伝えると、胃カメラ室へ連絡すると撮影可能と成り、そのまま撮影に。結果は、立派な末期ガン(笑)で、「手術をしないと死ぬぞ」とまで言われ脅された。

診察室へ戻り医師の説明を受けて、何故か「このまま医師の言う通りの治療を受け、そのまま医者任せにしたら、医師の言う通りの期日で死んでしまう」と感じ、急ぎだから手術を受ける事は承諾し、後は成り行きでモノを言うつもりだったが、鍼灸師と言う仕事は、医者から言わせれば按摩の片手間の仕事としか考えて無いから、時間をかけて説得する事に。

やがて一通りの診察が終わったから会計へ行き。待つ間に女房に電話を入れた。受話器は女房が取った。「私です」「アッ、お父さん検査結果は、単なる潰瘍だったでしょ」。幼稚園の事務所だけに、女房の周囲の騒めきが聞こえる。「残念ながら、末期ガン。最も、ワシには解ってたけどね」。その言葉を境に、蠢いていた受話器の音が消え、周囲の騒めきも消えた。受話器の向こうから何人かの人の気配と、空気の流れる音だけが聞こえる。多分、女房は真っ青な顔を引きつらせていたと思う。「このまま放っておくのも何だから、来週の月曜日に入院しますって言ってきた」で電話を切った。そして5病棟に入院している親父の所に、母親が来ている。入院室に入ると、母親が聞いた。「どうだったん?」と聞かれたから、「末期ガンと言う事で、来週の月曜日に入院します」とだけ言い、会計へ向かい、支払いを済ませて帰宅した。

こうなると、休んでる間の事や入院準備で忙しい。仕事も暇だったから早く閉め、ゴソゴソとしてる時に女房が帰ってきた。開口一番、「これから大変ね」「仕方が無いと言えば仕方が無い」。

入院当日は、女房h仕事で幼稚園へ。母親が入院中の父親の所へ行くから、私の車に同乗する。で思い出したのだが、この日からサマー・ジャンボの売り出し。一つ気に成ったのだが、病院へは午前10時までに受付をと成っていたが、宝くじも午前10時から。病院近くの売り場に、二人で買いに行きました。そして、10分程遅れて病院受付に。担当看護師に少し嫌な顔をされたが、余り後を引かなかった。それにしても、私好みの和風美人だ(笑)。

一通りの入院手続きも終わり、早割り去れてたから荷物も置き、そうこうしてる内に女房が顔を出した。「仕事は?」「園長先生が様子を見て来いって」「そうか」。すると携帯が鳴った。取ると入院中の女性患者さん。「先生、入院生活の第一歩はどうですか?」「どうですかと言われても、ベッドの所までは来たけど、何やかやとしていると女房が来て、いま担当の看護師さんと話してる」「先生、入院って初めて?」「二歳の時の盲腸からむち打ちが二回で、今回が4回目」「でも、慣れてないネ」で、電話は終わり、入院準備も終わったから女房も帰り、本格的に入院患者と成った。

一通りの検査も終わり外出可能と成ったから、当院の入院中の患者さんの見舞いに行く事に。当院へ来ていた患者が入院して1カ月目、本体は駄目なのだが、主治医に許可を貰て往診していたから、これも弱る。そしてもう一人、事故が元で外科に入院中の男性患者。むち打ちだが、病院が近かったから寄ってみる事に。共に私の顔を見て驚天動地の驚きよう。私の顔見て、まるで妖怪か化け物か怪獣を見る目で見ないでね(笑)。

其れから16年。色々と呼んありました。その辺り、このブログを読んでると、何処かでつながる話に成るから、チョットしたパズルみたいに成ってるかも(笑)。