Archive for 10 月 9th, 2019

誕 生 日

谷村新司の「誕生日~黄昏の街かどにて~」と言う曲の話では無い。今年も誕生日がやってくる。段々と後期高齢者の年代に成ってくる(笑)。
42歳のお祝いは自分で祝い、60歳還暦は家族が祝ってくれると言うが、42歳の時は貧乏の極致で人様をお呼びしてお祝い出来る状態では無く、私を入れて6人の家族で市内でも一押しの屋台ラーメンを食べに行った。7歳の娘は「このラーメン、美味しい」と喜んでくれたが2歳の息子は疲れて寝てしまっており、結局は食べられないまま。可愛そうな事をした。
そして還暦の時は、義母が亡く成ってからお疲れ会の食事に行ったのだが、女房が気を利かせて私の「還暦祝いの代わりにする」と言ったが、義母が亡く成ってからのお疲れ会だけに、義母を偲んだ食事会を私の還暦祝いにして貰う気にも成らず、年が明けてからに改めるよう言ったが聞き入れられず、結局は揉めてしまった。だから娘が還暦のお祝いといってたのも、金額の張るものばかりだったから、「まあまあ」と言ってるうちに半ばたち消えに成ったまま。だから健康長寿のお祝いが2つもダメに。

考えてみると、私の家族(女房と子供二人)が理由あってバラバラに成って7年、私は独居生活。冠婚葬祭を含めてお祝いやら何やかや、仕事以外の人的交流が縁遠くなってしまい、益々 孤立感が進んでいる。ただ一つ、3人の障碍者が毎年私の誕生日にはお祝いをしてくれ、ほぼ毎週の木曜日にはPC関連の集まりに寄り、四季折々には食事会に呼んでくれる。仕事抜きで集まる唯一の会合と成っている。

でもね、折角の三人の心に背くようだが、家族とは違う遠慮が入るから辛いモノがある。三人とも独身だが、リーダー格以外、自分の親兄弟が居る。私と言えば、親父が逝き、母親が寝たきりで施設に居る。二人の姉はトラブル続きで基本的な部分で縁が切れた。

女房は、アクの強い私の家族と折り合いが悪く、逝った自身の母親の世話をするべく実家に戻ったが、母親が逝ってしまってからでも帰る気配は無い。娘は結婚し子供も産まれ、親どころの話では無い。息子は、義母が亡くなってから私とトラブルに成り縁が切れてしまった。

よく言われるのだが、「先生、貴方は何かあったら、自分から皆さんにサヨナラする悪い所がある」と。そう言えば、私に責任の無いトラブルに巻き込まれた時も、私の尽力で解決したのだが、その時もその組織から身を引こうとした事がある。それも一度や二度では無い。自分でも、何故なんだろうと思う。

話は変わるが、私は父親から「子供は、命を掛けて親の犠牲になって守らなければ成らない」と言う教育を受けてきた。理由は、「お父さんは、親である天皇陛下を守る為、命を呈して戦争に行った。終戦が後一週間遅かったら、特攻機に乗って死んでいた」と言う話を何度も聞かされた。

幼心に何か変だと思いながら、「親孝行とは、死んで親に尽くす事」と言う考えが染みついて、大学へ行ってから二十歳頃まで心の奥底に根付いていた。だから、何時も自殺じゃ無い方法で、親の為に死ぬ事ばかりを考えていたように思う。そして結婚し、女房に言った事がある。「この家には、私の死を願ってるヤツが約二人居る」と。後日、女房は母親にその事を言ったら「そんな事あるか‼」って否定されたと言うが、実は口先では色々と言いながら、イザと成ったら母親と次女の姉が結託して殺そうとしてたのね。

「殺す」って行為、刃物系で切り殺す、突き殺す、一時話題に成った金属バットで殴り殺す、焼き殺す、飛び道具で打ち殺すと言うやり方では無く、長々に時間を掛けて精神的に追い込み自殺に追い込ませるとか、自律神経系をボロボロに病ませて病気で死なせる等々。これら自殺や病気で死んでも、原因を作った連中は余程の事が無い限り証拠が解りにくいから、多くの場合、立件される事は無い。自らの手を汚さぬ、ある意味 合法と言えば合法的な殺人方法ではある(笑)。だが最近、パワハラなどで職場の上司の言動で問題が起こったと、何処かの市町村の教育委員会のお偉方がお断りしてたですね。「イジメをしてはいけません」って言ってた教師が、集団で若い教師をイジメて問題になり、調べたら、まだ何人もの教師が被害にあってたと言う話。まだこれらは、被害者が自殺や病気で命を落とす事が無かったから良いのだが休職中と言う。

「誕生日の話」が悪い癖の寄道で、随分と話がズレたが、長々と生きてると色々とあるもんです。悪く言ったら、産まれるんじゃ無かったと言いたい(笑)。

産まれる話だが、私の母親は、何かあったら「誰のお陰で生活できよる‼」「誰のお陰で大きな家に住める‼」と、私に言ってました。それが私が結婚すると女房も巻き添えになり、同じ事を言われ始めた。特に、私達夫婦と母親が居間で話してると、突如として「誰のお陰で‼」が始まるのである。それも私達が結婚してからは、和気藹々と話してると、何となく母親の表情が可笑しくなる。そして、「何でも知ってると思って偉そうに‼ 誰のお陰で云々‼」と始まるのである。結局、自分の知恵知識のレベルが余りにも低く狭い為、話に付いて来れなくなりいきなりキレるのである。次女も随分と似た所があり、長女はモロ母親とソックリ‼ 自分の知恵知識で理解出来なく成ったらキレ、気違いのような顔で怒鳴り散らし大暴れするのである。

※何度かあるが、食堂で私達夫婦と母親の三人で話してると、マタマタ母親がキレだした。余り酷く成らない内に私が言った。「なあ婆さんよ、一つ聞いて良いか?」から始まり、

「あのな我々と話してて、簡単な内容の話をしてるのに、付いてこれなく成ったら、『何でも知ってる思うて、誰のお陰で生活できよんぞ‼』系の文句を必ず怒鳴り散らすが、誰が産んでくれって頼んだ。あんた等夫婦が上に成り下に成り気持ちの良い事しといて、ソリャ無いだろう。それに、子供が産まれたら養育するのが親の責任だろう」

って言うと、ニタニタと笑いだした。だって、息子達夫婦の前で息子が産まれた件を息子に言われたら、ソリャ恥ずかしいわな~。※

皆さんは、何故、自分の身内の恥を晒すのかとお思いだろうが、新居浜と言う住友の企業城下町で、私は親の稼ぎで良い生活をしていると思われ、妬まれ、虐められ続けて大人に成ったんですよ。この項でも、前の項でも書いてる通り、外で虐められ仲間外れにされ、本来なら外で受けた傷を癒す筈の家庭でも、他人様と同じ内容のレベルで虐められてたんです。それが自然と外に漏れだしたら、家に遊びに来ていた友人達が一人二人と来なく成りましたよ。だから、中二の時に今の家に引っ越して来たから、角野中学校から泉川中学校に転校しましたよ。それ故、高校時代まで付き合ってた友達らしき人物達とは、鍼灸学校を卒業して完全に切れました。

それでも一番最後まで付き合ってたHと言う男。家庭では私の事を侮蔑的な呼び方をしてました。高3の時からブラバンの後輩達も呼んでたのを聞いてたから解ります。それで随分と腹が立ったのは、このHの父親。市内でも珍しい剣道の超高段者で名誉会長か何かしてたのだが、私が市鍼灸師会の役員をしてた時の話。たまたま鍼灸師会の総会があり、続けて宴会もあったのだが、お開きに成って部屋から出ると、このH父親が居る。私の顔を見るなり、侮蔑的な名を何度も呼びながら、私の手を握ったまま話さないのだ。それはまだ良いとしても、侮蔑的な名前をズット連呼してるのには負けました。思わず、顔面に蹴りを入れてやろうかと思った程。だって、私も50歳を過ぎ、小さいとは言え会の役を2つもしてた時期。その辺りを解らず、小学生に喋りかけるような内容を大きな声で言うのである。結局、頭も性格も悪いんだろうな~。やがては仲間に呼ばれて私の手を離したが、今でもだが「こんな輩は放し飼いにするな‼」と怒鳴り散らしたいですよ。