Archive for 8 月, 2020

夏・夏・夏

令和2年の夏は、多くの方々は良いイメージが無かったのでは?
昔々 新居浜にも夏がくると、地域限定型のスーパーや全国レベルの百貨店や大型スーパーではクーラーが入り、BGMにハワイアンMusicが流れ始める。ただ頂けないのは、小型スーパーではエアコン・タイプでは無く、本当の水冷式クーラーであったから、天気の良い日でも湿気の高い日はベタッとした冷気がくるから気持ちが悪かった。それでも幾何かの冷気を求めて人々が集まっていた。

夏の音楽も、多様化した為か何時の間にかHawaiian Musicが影を潜めた。最近、CDショップも行かなくなったし、紅白歌合戦も観なく見なくなったし、その分だけ音楽の流行廃りも解らなくなった。それでも、夏の暑さの中でスチール・ギターでHawaiianの曲が流れると、「そうか‼ 夏なんだ‼」(笑)と思う次第。

昔、資格を取って新居浜に帰り病院勤めをしていても、別に彼女も男友達も作る気も無く、独りで喫茶店に入ってると有線が流れている。フト気になる曲が流れると、歌詞の一部を覚えて自宅近くのレコードショップに行き部分覚えた歌詞を伝えると、「この曲だと思う」とレコードを出して試聴させてくれた。「この曲だ」と言うと、ショップの女将さんが、「この曲、少なくとも大ヒット以上の売れ方をする」と言った。理由を聞くと、「貴方が、有線辺りで流れ始めた新曲の問い合わせに来て、今日みたいに即買って帰った曲は後々大ヒットした」そうだ。その時の曲が、「ダンシング・オール・ナイト」。そして、そこそこヒットした曲を遅ればせながら買って帰った曲の場合は、ロングラン・ヒットをしたそうだ。面白い事に、これら証人の居る事実を話しても、「何でお前なんかが‼ どうせ、偶々だろうが‼」と口汚く罵る輩が沢山居たのも事実。妬みの窮まりですね。

そして夏と言えば、お盆と終戦記念日の事を忘れてはいけない。終戦記念日と言えば、昔のテレビ番組では毎年、8月15日を中心に戦争系の映画が放映されていたように思う。丁度、年末には赤穂浪士の映画、夏は戦争モノ以外には幽霊・お化けものが常に放映されていたように思う。

大きな声では言えないが、コロナウイルスの関係で越境して遠くへ行ってはいけないと言うが、県境近くの人達は家を出て5分も歩くとお隣の県と言う事もありえる。これ以上は言わないが(笑)。

だから、私は4WDの軽箱バンに一人乗って、人の少ない村とか観光地とかに行くんです。さすが、脱水症が病気を発症したから水分だけは多目に持っていく。そして、出掛ける時には見知らぬ土地で怪我や病気の再発で入院と成りかねないから、お泊り道具を含めて生活に必要な物をボストンバックに入れて車に積んでます。

ここの所、高知県大川村の白滝の里や、面河渓、からり、等々、少々遠出をしている。で、一つ面白い話。救急車で病院へ運ばれた時、「県境を越えたか?」の質問に、「山へ行ったが、超えては無い」と言うと、「藪の中に入ったか?」と聞かれたから、「藪は入って無い」と言うと、「山へ行ったら藪しか無いだろう‼」と言う発言に、私は言葉を失った。そして、「山の中でも民家や町は随分あるだろう」と言うと、漸くして「アッ、そうか」と言った位だから、発想が随分と貧弱なのね。

終戦記念日と言えば、特に戦争経験者は「戦争は、何があっても二度としてはいけない」と言う。本当だろうと思う。第二次世界大戦時の映像をみると、無残な死に方をしたり、民間人の年寄りや子供達までがボロボロ。平和な時代に生きてきた[戦争を知らない年代]だけに、余計に嫌な気分に成る

唯一つ、皆さんに聞いておきたい事がある。多くの先進諸国は大体、戦争を仕掛ける事は無い。ならは、「軍備も軍隊も要らない」と言い、「自衛隊は、株式会社形式にして国が運営すれば良い」と真面目な顔で訴えた人が居たが、思わず「この人の頭、大丈夫?」と思いました。

話が部分、違う方へ飛ぶかも知れないが御容赦を。ある女性と話をしていて警察の話が出た途端、マジ顔で「警察なんて要らない‼」と言ったから、「何かがあったら、誰に助けを求めるの?普通は警察だろ。貴方はヤクザや半グレやチンピラに助けを求めるの?」って聞いたら、バツの悪そうな顔で笑っていたが・・・。

軍隊も此れと同じで、何かが起こったら、とんでも無い有事がおこった、どうすれば良いのか。自衛隊反対の人は攻め込んできた敵軍隊にボロボロに成る程 撃ち殺されて良いのね。非常時が起こった場合、己独りで生き抜いて行くだけの用意があればそれで良し。

こう言ったタイプの人に限って、平和な時は自衛隊・警察・海上保安署・消防などなどをボロクソに言うのに、何か有事があって行政の出動が遅れると、「お前ら公務員は税金で飯食っとるんだから、命を掛けて国民の命を救うのが職務だろ‼」と言うが、彼等だって税金は払ってるし、平均的には家族も居るのである。

映画・海猿で話題になった海上保安署の事故処理。海上保安官は海の警察官と解っていても、馴染みが無いだけ何をしてるか解らない部分があったが、海猿のように救助活動をしたり、日本海側では中国・朝鮮の違法漁船が発砲するから、海上保安官も打ち返しているのである。一般国民が知らぜざる場所で、小さな戦争状態が起こっているのだ。

小学校高学年の頃より海が好きであった。夏ともなれば、一人で自転車で1時間近く掛る海水浴場へ日参したものだ。もっとも。親戚があったから(笑)。そして、それが高じて海洋少年団に入ったが、新居浜近くで言えば支部があるのは今治だけ。結局、活動の何の活動も無いままに自然退会と成った。本来はスカウトに入りたかったんですけどね(笑)。そして大人に成り気が付くと、海上保安官の娘と一緒に成ってっと言う笑い話。けどね、決して計算付くでした訳じゃ無い。その証拠に、歳取って気が付く位だから(笑)。

テレビでは、「警察24時」と言ったタイトルの警察活動の紹介番組があるが、他の組織は少ない。紹介するにも、色々と難問があるのは解る。

(”^ω^)・・・又。

 

【近藤鍼灸院の健康新聞】㊶「コロナウイルス」

この来コロナウイルスの名前を聞くのも、ボチボチ嫌に成ってきてるのではないだろうか?
以前、平均的な日本人の場合、「コロナウイルスに対する免疫を2種類持ってるから、感染しにくいし重症化しにくい」旨の事を書いた事がありますが、覚えてますか?
免疫2種類と言う話、簡単に説明すると、「現在も感染者が、毎日2桁~3桁のスピードで増えてる割に、重症者や死者が諸外国ほど増えて無い事実。第一、此処二週間程で一気に増える筈も無く、感染してても無症状なり単なる風邪と思って見過ごしてる人が、何かの都合で検査を受けたらコロナだったと言う話ではないかと思う。それだけ無症状とか軽い風邪位の症状だから解らないまま、気に成って検査を受けてみて、初めてコロナウイルスに感染してたと解っただけの人が随分と多いと思う。

感染者はどんどん増えるだろうが、大した事ないままにおわりそうな気がする。ただ、沖縄のコロナウイルスの場合、何カ月前に日本上陸した時とは違った形に変身(笑)している恐れがあるとの報道もある。そうなるとチョット怖い話ではある。

感染者も数字だけ見ていると怖いが、その割に感染者総数にしろ重症者や死者の数が諸外国に比べて異常に少ないのです。今では家庭内感染のクラスターが増えてるから、インフルエンザや風邪扱いの考え方をしている学者もいる。すでに、予防薬&治療薬の取り合いも起こってるそうだから、ボチボチ違う方に進んで終焉を迎えそうに感じるが・・・私の考え方は間違っているだろうか?

 

今年の夏は・・・

新型コロナウイルスと、大雨&高温などの自然災害関係で、昔流で言えば「無茶苦茶で御座ります」と言える程に酷い目に合ってます。
多くが見た目から、「異常な位に元気‼」と言われ続けて居た私も、蜂窩織炎~横紋筋融解症~腎不全を起こし、救急車で運ばれて即 入院‼と言う酷い目に。蜂窩織炎を起こした直接の理由が脱水症状だったらしい(笑)。暑い割に水分と塩分を取って無かったから脱水状態と成り、何処かの小さな傷から細菌かウィルスが体内に入り脱水症状の影響で筋肉組織に入り、骨格筋である横紋筋がやられ、筋肉が溶け出し、それが尿として排泄されかかったから、入院して二日程、小便が濃いこげ茶色になってましたよ。
幸か不幸か身体の自由が効かなく成ったばかりの頃に、たまたま治療に来た姉に発見され、素人では二進も三進もいかなくなり、救急搬送と成ったのです。後日談だが、姉に発見されたのは金曜日の早朝。前日の木曜日夕方に、看護師の患者さんが予約で来たのだが、私が動けない状態みたいだと思いながら帰ったらしく、退院後、治療に来て「先生、どうも調子がわるそうだから救急車を呼んでおこうか」と思いながら、家庭の事が心配で帰ってしまったと言う。その時、既に身体の自由が半分以上失われており、家の鍵を掛けずにウトウトと現実と夢の間を彷徨っていたのです。だから気に成ってた事を、姉に頼んだら「そんな事、一切無かった」と言う話。これらも退院して色々と調べてみると、幻想的な夢を現実と勘違いしてたらしい。

そして退院して35日。右足の下腿と左足首の痛みが残っており、何時良くなるのか解らない状態で、仕事と治療を続けているのです。

 

75回目の終戦記念日

8月15日は終戦記念日である。格好つけてるが敗戦記念日である。呼び方より、国民にとっては国同士の殺し合いなんか無い方が良いのである。「今頃に成って何故、終戦の話?」と思われるだろうが、月遅れの御盆と時期が重なる事と、今の若い人達は昔、日本がアメリカと戦争していた事実を知らない人が多い事。そして、広島と長崎にタイプの違う原子爆弾を落とした事。
アメリカ側に言わせれば、「戦争終結を急がせる為に使った」と言うが、其れなら投下場所は東京のド真中か皇居に落とすべきであった筈。後日談を聞いてると、2種類の原子爆弾と言う新型爆弾の効果を知る為に落としたとしか言いようがないのである。戦争終結の為だけなら、当時の日本の国力から考えたら、軍事施設に多量の通常爆弾を落としただけで結果は出ていた筈なのだ。アメリカの情報力は凄いから、日本軍による真珠湾攻撃から2発の原子爆弾投下で終戦と言うシナリオを書いていた節がある。色々と出ている戦史を読んでると素人の私ですら理解できるのだ。そして深追いした内容をこれ以上書くと、飛んでも無い話に成るので この位にしときます。

そして今回、75回目の終戦記念日として話題に乗せた訳じゃ無い。90幾つで病死した親父が絡んだ話だ。
高知の山奥で貧乏人の子倅として産まれたオヤジは、今で言う中学校をでると山仕事をしていたと言う。しかし、先の見えない山仕事に限界を感じて都会に出る事を決めたと言う。
そこで、東京の歯科医院で住み込みで技工士として働いていた知人に連絡をし、仕事の世話の約束を取り付けて東京に出たのだが、何故かその知人が歯科医院を辞めていた。何の伝手も無いまま東京の木賃宿で思案していると、宿の主人が心配して事情を聞いてくれたと言う。そして事情が事情だけに、知り合いの歯科医院で技工士を募集していた事もあり、話がトントン拍子で進んだと言う。生活と仕事を手に入れたが、勤務を始めた歯科医院の跡取り息子が長期休暇で帰ってくる。それも当時、大学に通っていた学生の流行のような角帽と学生服姿を観て、やはり悔しさのあまり歯科医師を目指す事と成ったらしい。

当時、医科も歯科も大学で学んだ上で国家試験を受け合格しないと免許を貰えなかったが、検定試験を受けて合格すると貰える仕組みがあった。当然だが、大卒と同じく6年制の医学専門学校を卒業したら国家試験がある。学校の名前は、医科〇〇医専&歯科〇〇医専(〇〇医学専門学校)。これも、今で言う学校に入るに必要な学歴が無かった親父は、歯科医院の先生始め色々な世界の実力者の世話に成り、歯科医専に入学。昔は苦学生が多かった事もあり、仕事先で住み込みで生活と仕事と学業を約束される事が多々あったらしい。親父は随分と運が強く、給料は歯科医師がビタ一文使わないように管理してくれ、歳を取ってた親父が煙草を吸いたい、酒を飲みたいと思った時、歯科医師は口を開けた酒瓶、煙草の箱を目の着き易い所に置いて、遠慮無く頂ける仕組みにして頂いてたと言う。そして同級生の中に「何故、この人が医専に?」と言う位の秀才も居て、親父を大事にしてくれたと言う。そうこうしながら歯科医師の国家試験に合格し、免許を取得したと言う。

此処迄は親父の苦労話の紹介に成ってしまった。やがて戦局が悪化し、回り道して歯科医師に成った親父にも赤紙(召集令状)が来たと言う。それも予備兵で。それでも、歯科医師と言う国家資格を持ってるから、比較的、穏やかな戦地へ配属された言う。

面白いのは此処からで、患者さんと言えば、歯が痛いと言う兵隊さんと、それに準ずる人々ばかり。虫歯を削るのだが、昔の事だからモーターの回転が遅いし屑る刃先もボロい。だから削っていても、「痛いだろうナ~」と思いながら治療をしていたと言う。中には、若い下士官辺りが治療椅子の上で直立不動の格好でブルブルと震えながら座っている。流石に、「痛いのと違いますか?」と声を掛けたが、「大丈夫であります‼」と返答する。兵隊としての位は、相手の方が随分と上。方や、親父は歳取った予備兵の歯科医師。それでも、若い兵隊さんは、痛みで汗だくに成りながらでも治療を受けていたと言う。さすが、訓練された兵隊。相手が、地位は低くとも年取った歯科医師。礼節を守った訳だ。でもね、今でこそ痛く無い歯科治療を売り物にしてるけど、薬も道具も無かった時代だけに仕方が無かったと言えば其れまで。だから、脚でも腕でも切り落とさないと駄目な場合、何人もの男たちに体を押さえつけさせ、鋸で骨ごと腕や足を切って落としたと言う時代。私が小学生・中学生位に成って聞いた話だけに、生々しい話ではあった。皆さん、良かったですね~。平和な時代に産まれて。(笑)

そして終戦。オヤジ曰く、「終戦が、後一週間遅かったら、特攻機で飛んでいた」と言う話。そして家に帰ったのが昭和21年位に成ってからだと言ってたが、これも壮絶な話があった。夜寝ていると、寝ていた筈の親父がガバッ‼と起きると母親を俯せ状態にし、「危ない‼ 伏せろ‼ 君は海軍か陸軍か‼」と何度も伏せにさせられたと言う。今で言う、PDSD。命の掛った戦地での恐怖の毎日が、心身共に伸し掛かっていただけに、誰にも責められる話ではないが、母親曰く、「最初は、目の色が尋常じゃ無かったから気が狂ったと思ったけど。「危ない‼」とか「君は海軍か陸軍か‼」と聞かれると、精神の奥底はまだ戦地なのかと思った。でもね、何回位 伏せられただろか」と笑っていた。その親父は、私達子供を伏せさせずに14年程前に逝きました。

本日、令和2年8月14日㈮

 

CMを観る度に反省?

JR東海のTVCMで、[シンデレラ・エキスプレス][Xmasエキスプレス]がありました。山下達郎の綺麗で優しい歌声で[クリスマス・イブ]の曲が流れ、遠距離恋愛の一組の男女がイブに会えた喜びを表現したものだが、歳を取ってこのCMを観ても決して古さを感じさせない名曲である。今頃、古い話を持ち出して何なんだと思われるだろうが、これには深~い理由があるんですネ(笑)。一言で言えば、朴念仁の私は理屈で解っていても。女房が幸せを感じる言葉を伝えなかった事。若い頃、多くの同世代の女性は私を見た目だけで何の感情も無ゴミ以下の人間としか思わなかったし、実際に数人で私に面と向かって口汚い言動を吐き掛けていたから、「人間、特に若いオナゴは表面で綺麗な言葉で何かを言っても、陰・腹の中ではこんな薄汚い心で人を観てるんだ」って充分思い知らされていたから、女房が心から何かを言っても、可愛そうに猜疑心の塊と成っていた私の心に十分届かなかった訳だ。それでも頭の良い努力の人であった女房は、私の猜疑心を十分じゃないが氷解させたのも確か。

色々と諸説ありますが、男性を芯底愛した女性の心情に今も昔も余り変わった部分は無いような気がする。確かに女性には男以上の強いバイタリティーに溢れる部分がある。先日。亡くなった弘田三枝子氏が歌った[人形の家]の歌詞を聞いてると、一人の男を愛した直向な女心が端的に書かれているように思う。反面、ジュディ・オング氏が歌って大ヒットした[魅せられて]、女性のバイタリティ―溢れる本性を表現していると思う。

過去、私は女性に縁が無かったどころか、思春期の頃には其処に居ると言うだけで、口にするのも憚れるほど汚らしい言動で排除され続けてたんですね。だから、[人形の家]の歌詞なんぞ「絵空事の作り話で、一切そんな事あるもんか‼]と言い切っていたし、私に近寄って来る男女の多くが金品目的。よくよく調べてみると、[親父の地位と名誉と財産]が目的のケースが多かったが、結婚話に成ると少し事情が変わっていた。これらを説明していくと紙幅の関係で流石に多くは語れない。そして、こんな私にでも好意を寄せてくれた女性も少なからず居たようなのです。

先ず最初に思い出すのが小学校4年生の時、私のクラスに女子転校生が来た。住友の企業城下町 新居浜と言う土地柄、時期外れに転校生があったのだ。今回はGWを過ぎてからだった。そして私の隣の空いていた席に座る事に。やがて夏休み近くの某日、授業中に彼女が私に話し掛けた。「近藤君、私、近藤君の事が好きよ」と言ったのだ。50数年経った今でも正確に覚えている位だから、私にとっては驚天動地の出来事‼(笑)。突然の事に絶句してたが、理由を聞いてみた。「何で?」って聞くと、「近藤君って、凄く優しいから好き」と言う。だがこの話、結局そのままで夏休み入り、何故か夏休み明けには彼女は転校していたのです。そして、この時の「好きよ」は「好ましいと思ってる」意味なのね。(笑)

高校に入学し、連休明けにブラスバンドに入部した。すると、何人かの新入生女子が入部。「賑やかに成ったナ~」と思う間もなく、夏の甲子園大会の応援で練習に忙殺。と言う内に夏休み成った。そしていきなり夏季合宿と言う名目で笹ヶ峰登山と成った。参加は、全部員の約8割。後から入部した女子部員も5名程参加している。

登山初日は、集団で乗り換えの必要な路線バスを使うから、新居浜駅前を午前8時集合で出発して山小屋到着は午後3時過ぎ。到着後は、一休みした後は6食の人数分だから、当然の如くカレ~(笑)。二日目は特別する事も無い。部屋でトランプしたりゲームばかり。飽きた私は散歩がてら近場の山歩きに出掛けようと玄関先に行くと、一人の女子部員が後を追ってきて開口一番、「近藤君、誰か付き合っている人が居るん?」「イイや。この体型じゃ嫌われて、誰も真面に相手をしてくれん」「・・・誰か好きな人が居るん?」「それも無し。どうしてそんな事を聞く?」「・・・ウウン、チョットね・・・」と、そのまま何処かへ行ってしまった。だが山って所は、山小屋を出ても行く所もする事も無いから随分と暇である。部屋に戻ると寝てしまった。三日目は、早目の昼飯に最後のカレ~を食べてしまい、借りていた大鍋を綺麗に洗い、午後1時には山小屋を後にした。

下山後、私に「彼女は居るか」[好きな人が居るか」と聞いてきた部員が、私に特定の女性が居ないのが解ると、色々と積極的にお誘いがあった。映画に誘われたり、遊びに行ったり、用事が無いのに家まで訪ねてきたり、卒業してからはアパートの住所は知らせて無いのに手紙がきた。家に連絡して聞いてみると、母親が教えたと言う。大学から鍼灸学校に代わっても、正確に手紙がきていた。やはり実家の方へ問い合わせたみたいだ。その内、長期休暇で帰省すると家まで訪ねてくる。某日、「私、あんたの事を好きだったんよ。大三島の演奏会から帰ってきて学校でウロウロしてた時、手に持ってた封筒、あんたに渡すべき持ってたんだけど」と、告白された。

考えてみると思春期真っ只中の頃は、多くの女性に色白で太目の体型で忌み嫌われ、少し歳取ったら一方的に言い寄られてた部分がある。登山の時の女性に告白された頃、何人か足繁く当家に出入りしていた女性が居た。だが過去の経験から、相手の気持ちを確かめる事も無く時はすぎたのです。

鍼灸学校時代、何時も食事に行ってた食堂の娘さんにコンサートに誘われたりと、小さなお誘いが随分とありましたが、どれも成就せず。やがて資格を取って病院勤めを初めても、患者さんから結婚の世話話はくるが多くが不発。ただひとつだけ。同い年の女性があってみたいと言うので会うと、お互いが気に入ってたのだが、相手方の親族から財産目当ての話が出たのがでて、病院の事務長に「ウチの娘と結婚しろと言ってくれ‼」と言う話が耳に入り、女性本人から世話をしてくれた方に「断ってくるように、言って下さい」と言われたらしいが、本人同士が気に入ってるから自分達で断れないまま、世話をしてくれた人が断ってくれた。

でもね私が何時も言ってた「私はモテた試が無い‼」ってフレーズ、実を言うと病院勤務の時は年頃であった関係で色々な方から話が舞い込んでいたが、多くが「太いから嫌‼」「実家がデカ過ぎるから駄目‼」と言った理由で、その総数が80以上で、実際に見合いになったのが10回位。中には、私を騙して女に会わせたのが慣れて大騒ぎに成った事もあるし、黙って放っておくと、やはり「太い‼」理由が殆ど「鍼灸師である事」がネックに成ってました。

やがて、「私は結婚が出来ない‼ 縁が無い‼」と心の中で決めてしまい、話があっても気乗りしないまま適当に過ごしていた。ある夏の土曜日、当時、市内でたった一つあった百貨店前のバス停前で赤信号で待ってると、ドアが叩かれた。雨の中を誰だろうとみると、6歳若い従妹。乗せて帰れと言うから急いで乗せて発車したのだが、彼女も何故か縁遠い。

「帰り急ぎしてるか?」と聞くと、「急いで無い」と言う。「ついでじゃ、コーヒーでも飲みに行くか?」と聞くとOKの即答。だが、土曜夜市がある日だが、大雨だけに百貨店・スーパー・ファミレス・喫茶店の類は客で一杯。漸く国道のファミレスが空いていたから入ったのです。話をしていると、年頃なのに彼氏が居ないと言う。私も逆に聞かれたが。自慢じゃないが、縁遠くて付き合いのある女性は居ない。ああだこうだと言ってる間に、明日の日曜日にデートの運びと成った。それも従兄同士で(笑)。

何度目かのドライブで思ったのが、お互い相手に無縁の者同士。従兄同士なら結婚できるし、この娘なら気性も解ってるしと変な所で妥協案を出したが、その後、女房との話が出て、それに娘を私の嫁にと売り込みに来た一家が出現し、私の人生最大のモテ期だったように思う(笑)。

御見合いに成る前から80幾つもの潰れた話を持ってるだけに、「私はモテ無い男」と言ってると女房曰く、「お父さん、その話はせんといて。私が、そんなに魅力の無い男を選んだと思われるから止めて」と言われたのには、流石に反省。でもね、結婚式の時、我々新郎新婦が話をしていた時、側を通り掛かった元勤めていた岩崎病院の副院長(多分 今は会長職か)の星加晃医師が、女房に「何でこんなヤツを選んで一緒に成ったん」と、慇懃無礼な顔でヘラヘラと笑いながら言い、私達二人の顔を馬鹿にした顔で見てたっけ。それと、病院勤務の頃に時々話をしていた検査技師の近藤と言う奴も、いきなり「誰がオマエみたいな奴の所に来るんぞ‼」と言うし、物療をしてた誰だっけ、此奴も人を舐めた事を言ってたから、ある日突然死してやんの。

JR東海のCMソングの話が、随分と違った方向へ進んだが、今考えると、こう言った不遇と思われる色々な出来事があったから、女性が私との結婚を望んで言って来ても、素直には受け入れられなかったのも事実なんですよ。だから、結婚前から女房は私に愛情を注いでくれたが、それに応え切れなかった分、可愛そうな事をしたと猛反省している。

結婚前 まだ交際時期だったが、車で広島へ行く事になり、便を借りて呉の友人を誘った。所謂Wデート状態。四人で野呂山へ行ったのだが、友人曰く、「二人を見てたら彼女、お前と結婚したがっているのが丸解り。してくれって言ってるんなら、彼女なら迷う事は無いぞ。今は適齢期の男の方が多いから。いま逃すと結婚は諦めないといけないかも」とまで言われた。

そう言えば、星加医師と同じように、「誰がお前と結婚したがる‼」「お前みたいなヤツが、結婚できるか‼」と言う意味合いの事を毎日毎日、平気で私に口汚く罵りに来た連中が多かった。その殆どが岩崎病院関係者と出入りの業者。後々、病気をして休職中だった看護師の女性が岩崎病院の悪い噂を聞いており、確認で聞かれたから、色々と被害にあった私や患者や見舞客の事実の話をすると、「薄々は聞いてたけど、まさか其処まで酷いとは‼」って吃驚していたですよ。

そんな事もあり、岩崎病院の看護師や女性職員連中の言動、結婚話だけで味噌糞に言って断ってきた女性の言動で、女性に対する意識が悪く成っている上に、所謂 二人の姉や母親を見ていると醜い女の本性を見せ付けられたような気がする。そして、それらを取り巻く頭の悪い男達の言動に辟易しているのだ。

酷い時には、高校時代にチョット入部していたコーラス部から新年会をするとお呼びがかかった。「珍しいな」と思って行くと、やはりハメられた。新年会と言うものの、来ていたのは三人だけ。私を入れて四人。悪い予感が当った上に連中の対応が、「お前に用事は無い。お前の別嬪のお姉さんを連れてくるのを楽しみにしていたのに、何故、連れてこなんだ」と、私を責める話。「結婚してアメリカへ行ってるし、今年は帰って来ないと言う話だったし、第一、高校時代のコーラス部などから新年会など高校時代の集まりには出たく無いから断っといてくれ」と言われてたから、その旨を伝えると、まるで私の勝手な独断で呼ばなかった言い方をする。その様子は、三人で私を罵り始めたのだ。結局、挨拶も漫録に済まないままに、参加したく無いと言う姉を連れて行かなかった私を吊るしあげたのである。結局その会は散会状態。その日の夜、直接私に声を掛けた阿部と言う男から電話があり、「来年もやるから出てくれ」と言ったが、「アホか‼お前ら束に成ってあの言い種はなんじゃ。アレはワシに用事があったんじゃ無く姉に用事があったのが丸解りじゃろが。舐めるなよ‼。特にゴーヤン、1級上の合田が姉に岡惚れしくさって、ワシを出汁に呼ぼうとしたんだるが‼。どう言っても、あんな扱いされて行く気は無いから金輪際、電話もかけてくるな」と言って電話を切った。

一組なりの男女が、好きあって乳繰り合おうが何をしようが勝手だが、降らん事で私を巻き込み私をボロクソに扱った分だけ、ますます女性が絡んだ事に拘わりたく無いと感じるのです。最後に一言。私に関係の無い男女の営みや出来事には私を呼ばないでください。(笑)

 

親子の情&人間同士の情って何だろう。

二人の子供達が成人し、娘は結婚をして二人目の子が産まれ、息子は大学を出てから私との音信が途絶え、生きてるのやら死んでるのやら。連絡をしても返信が無いから、タマ~に戸籍謄本を取ってみても、死んだと言う情報も無く結婚したと言う情報も無い。
ある人に話したら、「息子さんを探しに行かないんですか!?私なら、解ってる範疇の事を元に探しに行きますよ‼」と言うが、それは平均的に大きなトラブルの無い家庭での話と考えている。

私の父親は娘二人の挙句、「近藤家の跡取り」としての大望の私と言う男子が産まれたから狂喜したらしい。だから、小学生時代に何人かグループで友達が遊びに来て、庭木に登って遊んでると、「危ないから降りなさい‼」と怒鳴る。私も友人達の手前 幼子のように扱われて嫌気が指し、「皆も登ってるから大丈夫‼」と言うと、「皆はどうでも良い。近藤家の跡継ぎのお前が怪我をしてはいかんから、降りなさい‼」と怒鳴る。そう成ると遊びに来ていた友人達は良い気がしない。親父から言ったら「他人の子供が怪我しようが死のうが関係無い」ような言い種を目の前でされたのだから、誰だって良い気はしない。
その内、友人達はゾロゾロと帰り二度と来る事は無いし、タマ~に誘われて誰かの家に遊びに行っても、部屋で遊んでいると、「外で遊ぶか」と成って靴を履きだすと、連中は話が出来て居たのか私を置いといてドロドロと何処かへ走って逃げたのである。結局、報られた私は見つける事が出来なかったから帰りました。

私は2年保育の保育園に行ってたが、近所の多くの家庭では1年保育が多かった時代だ。
二年目の春、当家の2~3件隣の合田と言う靴屋の子供が入園してきた。私の顔を見ると「二年目か」と言い、「保育園が終わったら遊びに来いや」と誘われ、昼食が終わって遊びに行った。其処までは良かったのだが、その子の父親が帰って来て、一緒に遊んでる同級の子を呼んだ。暫くして、私の所に来て座っていたが、いきなり「お前、帰れ」と不機嫌な顔で言う。「何で、お前が来いって言ったから来たのに」と言うと、「お前んちは金があるから遊んだらん。帰れ‼」と言う。男親の妬み嫉みで遊んでいる子供達の間を引き裂いたのだ。似た事が度重なる。

小学校に上がり、初登校の朝、独りで学校へ向かった。当家から50m程先に木花鮮魚店と言う小さな店があった。行きは、「行き夜で~」と気軽に声を掛けてくれたが、下校時に成り店の前を通り掛かった私に「オイデオイデ」をする。何だろうと近寄ると、新居浜弁独特のイントネーションで「あんた所はエ~ネ~金が有って。ウチら金が無いけん中学出たら集団就職で夜行の汽車に乗せて都会へ行かないけん」と言う。木花鮮魚店には私と同い年の女が居たが、いい大人が年端も行かぬ子供に吐く言葉か‼だが、新居浜と言う土地柄、住友と言う企業城下町だから妬み嫉みが酷いのである。

だから角野(すみの)校区は山手に属して新居浜の先駆者的な色合いを持ってたから、教師達も子供の親の職業を妬んで酷い扱いをしてた。酷いのに成ると、地元の高校出で地元採用の住友の職員が若くして主任に成ろうものなら、教師たちが最敬礼をしていた程。幼心に「アホかいな‼」と思ってまし。

当家の二人の子供達は、大学出るまでに反抗期はあったが、子供達から縁をきるような言動に出るとは思わなかった。何かあって連絡しても無しの礫‼ 幾ら連絡しても何の返答返信も無い限り、ワザに探しに行く気も無い。そこに親子の絆なんか感じられない。特に息子は、私の父親が死んだ時は高校生位だったから泣きながら葬儀に出たが、女房の御両親が亡くなった時は来てないのである。何を考えてか知らないが、そこに人の情なんて感じないのである。

少々話が変わるが、私の母親の意向で学校の授業優先で爺ちゃん婆ちゃんの葬儀に私を参加させなかった。高校生に成った頃、何を思ったか私の母方の祖母が亡くなった時は葬儀に出ろと言う。葬儀が終わって居週間ほどは母親と話をしていて祖母の話が出ると涙が出ていた。ところが私の二人の姉達は「婆ちゃんが死んだって、なんで泣きよるん。可笑しいわ~」と言ってヘラヘラニタニタ笑ってるのである。この二人、年取って何かの用事で私の知人と話をする事があった。すると、その知人曰く、「お姉さま方、普通の話をしてても心が通じないと言うか通わない・・・」と言う感想を言ってたが、何と言うか・・・。

表向きは上品そうに喋るが、何事においても自分達が最上級の人種で、弟の私にでさえ、とことん見下した口調で嫌らしい話をするのである。だから、他人様なら二度と側へ寄るのも嫌と言う事に成る。多分、私も同じ血を受け継いで、同じ環境で生活していた分、随分と影響を受けていると思う。と、色々と書いていると、子供達が縁を切るように私から離れて行っても仕方が無いのかも知れない。

考えると私の両親が、人間として他人様への心遣い気遣いの姿勢が全く成って無かったから、人間としての教育が成って無かったのだと思う。だからその辺り、70歳近く成ったら誰も教えてくれないから、いまだにシンドイ思いで勉強してますよ。情けないけど。今では素晴らしい人材と巡り合い、ボチボチと生活しています。

 

年を重ねて

私は何故か「元気だ」「元気過ぎる」と言われる事が多かった。

実を言うと⒑数年前に逝った親父は随分と元気で、70半ばにして懸垂を5~6回はしていた。筋肉を触ると、弾力のある柔らかく、アスリートのような筋肉をしていた。ところが、私と言えば僅かにアスリートらしき筋肉はしてるが、弾力の無い粘った筋肉をしている。だから、懸垂は出来ない(笑)。で これについて説明してみます。

体質的には父親の遺伝子も受け継いでいるから、確かにアスリート系の筋肉をしている。反して、全く逆の筋肉をした母親の遺伝子も持ってるから、「肩が凝って頭が痛い」的な症状が続き、内科医であった義理の叔父に、「アイツ、母親とソックリな事を言ってる」と、色々と症状が出ていても真面な扱いを受けた事が無かった。医者に成りたかったと言う高校教諭の中には、「熱も無いのに頭が痛いとか、気分が悪いとか言って吐くヤツが居るが、仮病も好い加減にしろ‼」と嘯く輩が居た。

父親の遺伝子の問題と相まって、鳩胸だから本来はかなり元気・丈夫な筈なのだが、持続力が無い、脚が遅いなどなど、随分とマイナス面しか無かった。何故なら、肥満体と称される体型だから、幼少の頃は何かあると「ブタ‼」とか「ブ~‼」とか、心無い呼び方をされていた。最悪だったのは、高校時代に付き合いのあった日野と言う男の父親。剣道の8段だとかで田舎では随分名士だったのだろう。私がまだ市鍼灸師会の役員を二つしていた50台後半の頃、鍼灸師会の総会が某飲食店であった。何組か、やはり総会をしているらしい集まりがあった。そして総会が終盤を迎えた時、トイレに行こうと部屋から出ると、件の日野の親父と鉢合わせ。私の顔を見た途端、「ブ~よ。元気なんか」と言い、私の手を握手状態で掴むと、「ブ~よ、ウチの息子とヨク付き合ってくれたノ~。有難うよ、のうブ~よ」「のうブ~よ~」と、酒が入ってるから大きな声で何度も何度も言うのである。

私と言えば、小さいとは言え会の役員をしている身であり、後ろには同業者が何人もいるのである。私は思った。「日野の糞オヤジよ、お前の末息子と同級とは言え60歳近くなった男に、その言い種は無いだろう。高校時代から40数年も経ってるんだ。其れなりの立場ってのがあるんだぜ。馬鹿野郎‼」と。やがて日野の糞オヤジは、タクシーが来たからと仲間に引っ張られて帰って行ったが、高校出てから40数年経って、まだこんな扱いをされるとは‼と言うより、世の中の色々な事が全く解って無い連中が目に付きますよ。そして此の糞オヤジ、暫くして旅立ちましたよ。

私が侮蔑の言葉で呼ばれる太目の体型、実は「甲状腺機能減退症が原因で太目」に成ってるんですね。この話をすると、医師や素人の方々から「医学知識があるから、思い込みじゃにですか」とまで言われるが、縁戚の病院勤めをしていた頃に、病的な倦怠感&疲労感に微熱が加わり、楽しみにしていた慰安旅行ですら取り止めた程。それでも、経営者側は「バカ男のワガママ」と思っていたらしいが、縁戚病院を辞める決意をして近所の評判の良い医師に掛かった。だが検査をするにあたって、トータル的な血液検査をする事に成ったが、項目を見るとアチコチの医院なりでバラバラにしてた検査項目に印が付いてるだけ。「此処も、ヤッパリ無理か」と思った。

採血が済み1週間後に来いと言うので行くと、「検査の結果、何処も悪く無いから此処でする事が無い。痩せたら治る」と、7年程前の19歳の時に、東海地方の大学に行ってた私は病的な疲労感倦怠感に困り、学生専門のアパートの大家の相談し、名古屋大学付属病院へ行ったのだが、その時と同じ「検査に異常が無いから、痩せたら治る」の発言に、尿を採取して糖と蛋白を調べただけで異常無しとしたから、「他に検査は無いんですか」の私の問いに、「此処でした検査以外、一切無い。そんなの痩せたら治る‼」と言い切ったから、「じゃあ痩せる迄、この病的にシンドイのは我慢しなくちゃいけねいんですか?」と聞いたら、「そんなの自分で考えろ‼」と成り、僅か19歳の学生が40半ばの医者と診察室で怒鳴り合いになりましたよ。

結局、19歳の夏から26歳か27歳迄の数年間、甲状腺機能減退症と言う病気を見落とされ、過食と運動不足の馬鹿な肥満児としてしか見られて無かったのですよ。だから、胃ガンの時も、おおよそ「胃ガンだろう」と解ってても医者には診て貰わなかったんですよ。だって、「胃が悪い」って言っても「そんなの過食を止めて運動して痩せたら治る」って言われると思い込んでましたから。実際、言った医師も何人か居るんですよ。

しかし面白い話、体力的な事が尾を引き大学を二年で辞めて鍼灸学校へ入った時、同級生に眞鍋さんと言う薬剤師が居て。私が自分で気が付かないうちに常に「シンドイ」を連発していたらしく、内緒で文献で調べてくれ、「粘液水腫と違うのか?医者に診て貰ったら」と進言してくれたのだが、1年前に名古屋大学付属病院でのトラブルを言い、多くの病院や医院の医師に掛っても「過食を辞め運動をして痩せたら治る」と言うお題目だけで、埒が明かなかった事を言うと、「新居浜の鍼で有名な岩崎病院、親戚なんだから相談したら」とまで言ってくれたが、「あそこは家庭医として出入りしてるけど、ヤブで、頭が痛い、腹が痛い、風邪を引いた、チョット怪我した位の事しか治療出来ない。だからそれ以上の事は望めない」と言うと、真っ暗な顔をして何も言わなくなった。しかし、彼の見立てが一番正確であったのだ。

だから、近所の医院で診て貰って埒があきそうに無かったから、「鍼灸学校へ入ったら同級生に薬剤師が居て、チョットした切っ掛けで粘液水腫を違うかと言ってくれたのに、その後、何処の医者に掛かって言っても、何をどう思ってか調べる事は無かった」と言うと、初めて「調べる」と言って調べて貰ったのだが、結果を見た医師は「こんなに凄い数値が出るとは思わなんだ‼」と言う事でした。結局、見た目が元気そう健康そうだから、思いもよらなかったのだと思う。

そして数週間後、岩崎病院では会長の一言で二人の医師・二人の看護師に命じて会議を開かせ、やった事と言えば女性専用の血液検査以外の全ての血液検査をする事だった。鍼灸学校に行き出した頃、同級生の薬剤師が言ってくれた事を伝えたのに、自分の思い込みで真面に私の診察をして無かったのだ。結局、同じ答えが出たから、「こんなに凄い数値が出るとは思わなんだ」と言う話。

今でもだが、多くの医者や素人達は見た目の太さから「過食を止めて運動し、痩せたら治る」と言うのですよ。ただ同業者の一人に背中を揉んで貰った時、「アレッ、若い時に運動しよった?」と聞いたから、「運動は色々と。ガンからの退院後、空手をやってたし、ウォーキングはずっとしてる」と言うと、「見た目から、脂肪太りの肥満体と思ってたけど、何の何の奥の筋肉が無茶苦茶鍛われとる」と驚いてたですよ。

高校の女子ウェイト・リフティングの選手も、昔は痩せた男性が好きだったが、ウエイトを初めて肥満・筋肉質・中間の身体構造が解りだし、単なる脂肪太りの身体や痩せた=華奢な身体に興味を示さなく成り、少し太めの筋肉質っぽい男にも興味が湧くとか。今でもだが、筋肉質の太さも極端な話がウェイトで鍛えたりフィットネスで鍛えた筋肉質の身体も肥満と一括りで判断した医療関係者が居ました。と言う事は、ウエイトリフティングやフィットネスは脂肪太りをする為にしてると言う事に成る。見た目と身長と体重とウエスト周りの数値だけでメタボリックと判断し、休日にも拘わらず自分の勤務してる病院へ即行かせようとした医師・保険師・看護師の集団が居ましたからご注意‼

視診と言う診断方法があるのだが、素人ばかりか医業の専門家でさえ「見た目」だけで判断する。問診と言う診断方法があるのだが、「頭が痛い」と言ったら詳しい話も聞かず「痛み止め出しとく」の一言で双方が納得する。と言った摩訶不思議な事が、救急以外の病院医院の診察室では行われているのです。