Archive for 8 月 14th, 2020

75回目の終戦記念日

8月15日は終戦記念日である。格好つけてるが敗戦記念日である。呼び方より、国民にとっては国同士の殺し合いなんか無い方が良いのである。「今頃に成って何故、終戦の話?」と思われるだろうが、月遅れの御盆と時期が重なる事と、今の若い人達は昔、日本がアメリカと戦争していた事実を知らない人が多い事。そして、広島と長崎にタイプの違う原子爆弾を落とした事。
アメリカ側に言わせれば、「戦争終結を急がせる為に使った」と言うが、其れなら投下場所は東京のド真中か皇居に落とすべきであった筈。後日談を聞いてると、2種類の原子爆弾と言う新型爆弾の効果を知る為に落としたとしか言いようがないのである。戦争終結の為だけなら、当時の日本の国力から考えたら、軍事施設に多量の通常爆弾を落としただけで結果は出ていた筈なのだ。アメリカの情報力は凄いから、日本軍による真珠湾攻撃から2発の原子爆弾投下で終戦と言うシナリオを書いていた節がある。色々と出ている戦史を読んでると素人の私ですら理解できるのだ。そして深追いした内容をこれ以上書くと、飛んでも無い話に成るので この位にしときます。

そして今回、75回目の終戦記念日として話題に乗せた訳じゃ無い。90幾つで病死した親父が絡んだ話だ。
高知の山奥で貧乏人の子倅として産まれたオヤジは、今で言う中学校をでると山仕事をしていたと言う。しかし、先の見えない山仕事に限界を感じて都会に出る事を決めたと言う。
そこで、東京の歯科医院で住み込みで技工士として働いていた知人に連絡をし、仕事の世話の約束を取り付けて東京に出たのだが、何故かその知人が歯科医院を辞めていた。何の伝手も無いまま東京の木賃宿で思案していると、宿の主人が心配して事情を聞いてくれたと言う。そして事情が事情だけに、知り合いの歯科医院で技工士を募集していた事もあり、話がトントン拍子で進んだと言う。生活と仕事を手に入れたが、勤務を始めた歯科医院の跡取り息子が長期休暇で帰ってくる。それも当時、大学に通っていた学生の流行のような角帽と学生服姿を観て、やはり悔しさのあまり歯科医師を目指す事と成ったらしい。

当時、医科も歯科も大学で学んだ上で国家試験を受け合格しないと免許を貰えなかったが、検定試験を受けて合格すると貰える仕組みがあった。当然だが、大卒と同じく6年制の医学専門学校を卒業したら国家試験がある。学校の名前は、医科〇〇医専&歯科〇〇医専(〇〇医学専門学校)。これも、今で言う学校に入るに必要な学歴が無かった親父は、歯科医院の先生始め色々な世界の実力者の世話に成り、歯科医専に入学。昔は苦学生が多かった事もあり、仕事先で住み込みで生活と仕事と学業を約束される事が多々あったらしい。親父は随分と運が強く、給料は歯科医師がビタ一文使わないように管理してくれ、歳を取ってた親父が煙草を吸いたい、酒を飲みたいと思った時、歯科医師は口を開けた酒瓶、煙草の箱を目の着き易い所に置いて、遠慮無く頂ける仕組みにして頂いてたと言う。そして同級生の中に「何故、この人が医専に?」と言う位の秀才も居て、親父を大事にしてくれたと言う。そうこうしながら歯科医師の国家試験に合格し、免許を取得したと言う。

此処迄は親父の苦労話の紹介に成ってしまった。やがて戦局が悪化し、回り道して歯科医師に成った親父にも赤紙(召集令状)が来たと言う。それも予備兵で。それでも、歯科医師と言う国家資格を持ってるから、比較的、穏やかな戦地へ配属された言う。

面白いのは此処からで、患者さんと言えば、歯が痛いと言う兵隊さんと、それに準ずる人々ばかり。虫歯を削るのだが、昔の事だからモーターの回転が遅いし屑る刃先もボロい。だから削っていても、「痛いだろうナ~」と思いながら治療をしていたと言う。中には、若い下士官辺りが治療椅子の上で直立不動の格好でブルブルと震えながら座っている。流石に、「痛いのと違いますか?」と声を掛けたが、「大丈夫であります‼」と返答する。兵隊としての位は、相手の方が随分と上。方や、親父は歳取った予備兵の歯科医師。それでも、若い兵隊さんは、痛みで汗だくに成りながらでも治療を受けていたと言う。さすが、訓練された兵隊。相手が、地位は低くとも年取った歯科医師。礼節を守った訳だ。でもね、今でこそ痛く無い歯科治療を売り物にしてるけど、薬も道具も無かった時代だけに仕方が無かったと言えば其れまで。だから、脚でも腕でも切り落とさないと駄目な場合、何人もの男たちに体を押さえつけさせ、鋸で骨ごと腕や足を切って落としたと言う時代。私が小学生・中学生位に成って聞いた話だけに、生々しい話ではあった。皆さん、良かったですね~。平和な時代に産まれて。(笑)

そして終戦。オヤジ曰く、「終戦が、後一週間遅かったら、特攻機で飛んでいた」と言う話。そして家に帰ったのが昭和21年位に成ってからだと言ってたが、これも壮絶な話があった。夜寝ていると、寝ていた筈の親父がガバッ‼と起きると母親を俯せ状態にし、「危ない‼ 伏せろ‼ 君は海軍か陸軍か‼」と何度も伏せにさせられたと言う。今で言う、PDSD。命の掛った戦地での恐怖の毎日が、心身共に伸し掛かっていただけに、誰にも責められる話ではないが、母親曰く、「最初は、目の色が尋常じゃ無かったから気が狂ったと思ったけど。「危ない‼」とか「君は海軍か陸軍か‼」と聞かれると、精神の奥底はまだ戦地なのかと思った。でもね、何回位 伏せられただろか」と笑っていた。その親父は、私達子供を伏せさせずに14年程前に逝きました。

本日、令和2年8月14日㈮