Archive for 10 月, 2020

久々に歩いた善通寺のウォーキング大会

役員を仰せつかって6年、会合とウォーキング大会が重なり、6年間で歩いた日が2日程で、距離にして約10㎞程。
そして役員を辞め、サァと言うかイザと言うかウォーキングに行こうとしたら生臭になって、面倒くさくなったのと、コースが中途半端なのと天気の加減でついつい止めました。そして「今年こそ!!」と準備を始めたら、どうも様子が可笑しい。駅で貰ってきた冊子は良いのがあったのに、ネットで確認すると上半期の多くが赤文字で「コロナの影響で中止!!」と、99%がフイに。だから今回のは新しい冊子の分だから、少々短いが参加する事に。そして、主催の会が初めてだったから、余計に楽しみでした。でもね、初めての人達って、私の顔を見て怖がるのね。ヤクザじゃないかって。それでも終わる頃には打ち解けて楽しく終りました。
コース途中の善通寺で、境内に塀を背に500羅漢像が沢山。それを見て、「羅漢さんの中には自分に似た人が居るってね」。傍を歩いてた参加者も、「そう言いますね」。「でも、怖い顔した私に似た羅漢さん、居るのかね」の言葉に、唯一の女性参加者が大笑いしてたっけ。

 

全ガキ連?

中学三年生の夏休みのある土曜日、食事を済ませて出かけようとすると、遊びに来ていたオジサンが「受験勉強しよるんか?」と聞いたので「やりよる」と言って出掛けようとすると、「何処へ行くんぞ」「友達の家」「何の集まりだ」。丁度、学生運動真っ盛りの時だったから、「全ガキ連」と答えると、両親もオジサンも大笑い。「そんなのあるんか?」と聞かれたから、「あるから行くのよ」と堂々と抜け出したのです。(笑)

 

壊滅した日本赤軍派

古い話で申し訳ないが、河合楽器の別荘が赤軍派に乗っ取られ警察と銃撃戦が行われた事を覚えていますか?僅か48年程前の事件である。その後、20年程前に「突入せよ」と言うタイトルの映画で思い出された方も居られるのではないだろうか。こう言ったドキュメントタイプの映画が出ても、興味を示すより、その映画に敵意を持つ方々も居るから難しい話だ。

事件当時、多くの民放が専属のチームを作り、現場に張り付けて垂れ流し状態で映像を流し続けていた。ある日、タバコ屋の前を通り掛かると、店番の婆さんが現場の映像を見ていた。面白半分で、「婆ちゃん、現場はどんなに成っとる?」と声を掛けたら、「何で軍隊を呼ばんのかね~」と言う。
軍隊は既に解体され、自衛隊と言う形になっており、当然だが警察権が無いから事件があっても顔出しは出来ない。言っても無駄だから黙ってると、何度も「軍隊を」って言うから気の毒に成り、「婆ちゃん、日本には軍隊が無いから、ああやってお巡りさんが対処しているんよ」と言っても、「軍隊」「軍隊」と言うから、その場を離れた。老女にしてみれば、お巡りさんと言えば泥棒を捕まえたり、駐車違反を取り締まったり、する位の事しか見て無いから、赤軍派と銃撃戦をしてる姿を見てもピンと来ないのは解る。

それと「突撃せよ」の中で、警察官の食事にカップ・ヌードルが出たのだが、失礼だが一瞬笑ってしまった。でもね、その理由は直ぐに分かった。
あの極寒の中で、腹を空かせた警察官の腹を満たすにはと考えた場合、普通の弁当では駄目。温かく、腹を一杯にできる食べ物と言うと麺類。だが何百人もいる警察官の食器やら何やらを考えた場合、後始末まで考えると普通の食事では駄目。で思いついたのが、僅か数年前に発売された日清のカップ・ヌードル。嫌な宣伝をしてしまった(笑)が、温かい食事,お腹が満たされる、作るのも湯を注いだら良いだけで、食器も使わないか後始末も楽と、何もかも直ぐに間に合う効率を考えた場合、ベストの食事だった訳だ。
こんな話をすると、物知りの方々は即「栄養の問題が!!」と言われるが、何か月も何年も副食も食べ無いで三食カップ・ヌードルだけを食べる訳じゃない。緊急避難時の食事なんですよ。戦時中、戦闘が始まる前には握り飯二個とタクアン二切れが昼飯とか戦闘食とか呼ばれる非常食が出されていたのですね。戦闘が長くなれば当然、生き残った兵隊さんの腹が減る。食事係の兵隊さんは握り飯とたくあんと水を、飛んでくる敵の弾を掻い潜りながら配っていたという話。

この時の映像に映し出されたカップ・ヌードルの山は、CMとして制作し使うなら、本来なら製作費や放映料が幾ら掛かるか解らない位の宣伝効果があったと言う。その証拠に、映画が上映されるまでボチボチとしか売れて無かったのに、それこそ爆発的と言える位の量が売れ始めたという。
そして今では国民食となり、種類もたくさんできましたね(笑)。

 

人生とは

年が齢的な部分が老人の域に達し、孫が二人産まれ、気が付くと結婚してない息子が居る。結婚しないといけない規則は無いし、結婚しても離婚する夫婦が増え、離婚した夫婦は別の異性と性的快楽に進むケースが多い。
私が結婚した頃、随分と仲の良かった知人にも披露宴に列席して頂こうと何度も声を掛けたが断られた。そして結婚後、ご主人から驚くべき話を聞いた。奥さんに男が居たのだ。そして離婚を切り出した時の第一声が、「子供は要らないから別れてくれ」だったと言う。面白い事に後々解る事だが、主人以外の男ができた場合、離婚を申し出る時の御約束の第一声のようだ。何故なら、この時期に三人の知人男性が嫁さんから同じ言葉を吐かれて驚天動地の心境になったと言う。当然、嫁さんが主人と別れる決心をさせた間男は、何等かの理由で独身の場合が多いようだ。嫁さんが離婚を考え言葉を発した時は、立派な不倫妻に成ってるのだ(笑)。

そして後二組、「子供は要らないから別れて」と言いつつ別れた夫婦が居るが、その内の一組は最悪で籍も抜けて無いのに間男の元に走り、あろう事か間男の子を妊娠したと言うから立派としか言いようが無い。

一組目の不倫妻は旦那の元から逃げて、五人目の男に殺された。丁度、某年12月30日の昼のニュースに出た程だから、ラジオ代わりに付けてたテレビには殺された不倫妻の写真が出たから「やっぱり」と言いながらでもショックだった。

これも人生~♬と言うには生臭い話だが、最近・・・(笑)

 

何度も言いたい、「今年の夏は‼」

例年、暑い夏は「今年の夏は‼」と言い、寒い日の多い冬は「今年の冬は‼」って言ってる気がする(笑)。
ただ70歳近く成ってくると、体力の衰え・気力の衰えを感じだす。この話をすると、私より高齢の方々から「何を戯けた事を‼ 私等、アンタの年齢の時は病気もした事は無い‼」と、よく言うからジックリと話を聞かせて貰うと、なんと病気ばかりをしていたり、「シンドイ」と言ってダラダラ寝てばかりしていた事が発覚(笑)。話した本人も苦笑いしている。でもね、たまに寝込んでも本当に「シンドイ」と言わない人も居る。

今年の夏、救急車のサイレンの音が例年より多い気がしていたが、まさか自分が運ばれる事に成るとは思わなかった。その直接原因は脱水症から[蜂窩織炎]から[横紋筋溶解症]や[腎不全]まで引き起こしていたのだ。昼過ぎから心身共に可笑しく成り、身体に力が入らず床に転がったまま。治療に来た姉に発見され救急車で運ばれて、医者と話し合いで私のペースで治療が進み、本当に5日、正確には4日半で退院したのです。治療に来ている看護師さん等に「蜂窩織炎に成って・・・」って言っただけで、皆さん驚愕するのです。そして「5日で退院した」って言うと、「恐ろしい生命力じゃ‼」と言われたのです。

老人施設に預けてる97歳の母親が9月1日に様子がおかしくなり、病院へ運び込まれたらしく施設から電話が入った。それも今にも死ぬような言い方だったから、姉に連絡して行ったのだが、病院まであと10分程の時に「何処に居る、何をしよる‼」と言う電話が掛かった。朝一の電話もだったが、平素は女性が掛けてくるのに男が掛けてきた。それだけに語気のつ強さにカチンときてる。病院到着後、すぐに母親の所に通されたが、最高血圧が100以下に落ちてるし、医師は「もうすぐ死ぬ」発言をする。

実を言うと、母親の死にかけは二度目(笑)。最初は昨年の1月。だから1年8か月前。この時も、起床させ着替えさせてベッド脇に座らせた途端、様子が急変。慌てて病院に連れて行き、外来看護師が待機する玄関先に止め、ドアを開けた看護師が母親の異変に気が付いたと言う。そう、心臓が止まってたんですね。そのまま車の中で心臓マッサージをして事なきを得たという。

この時も朝8時過ぎに電話が掛かって「即病院へ」と言われたが、新病院は少し遠い所に建てて場所を知らなかったから到着迄1時間以上かかった。到着し処置室に通されたが、心臓が動き出して眼も開けたままだが、看護師達が「もう死ぬ」と思い込んでるから皆で立ってるだけ。一人の看護師が「顔を見てやってください」と言う。瞬きもしないままジッと天井を見ている。再び看護師が「何か声を掛けてあげて下さい」と言う。「・・・婆さんよ、シンドイか?」と声を掛けると、ギロッと私の顔を見たと思ったら目があった。その瞬間、私は「命を吸われた」と思った。

医師曰く、「持って今日一日」と言う事だったが、色々と誤算があった。アメリカの姉に連絡しても帰国2~3日先。それを医師は、「延命治療は断られたが、アメリカの人が帰ってくるまでは生かせときましょう」の案に同意したのだが、誠に凄い事に成りました。

心臓が止まった翌日に食べ物を要求されたからゼリーを食べさせたら幾つか壁たという。その翌日「何か食べたい」と言うので柔らかい物を食べさせ、その翌日「腹が空いた」たと言うので食事をさせたと言う。それ以来、元気に成り復活したのだが、[もう死ぬもの]と思って仕事が終わると毎日、片道40分の道のりを毎日通ったのだが、最初は何か言ってるのだが充分聞き取れなかったが、日を追う毎に「寒いのに暗くなって、気を付けて帰らんかいよ」とハッキリと聞き取れ出し、1週間目には元気な年寄りと何ら変わった風の無い言葉に成ってました。そして何日かして退院。施設に戻ったのだが、何週間かは「奇跡が思った」と言われてました。

そして今回、心臓こそ止まらなかったが血圧かスーッと落ちてしまい、慌てて私の所まで「すぐ死ぬ」感覚の連絡をしてきたのです。でも、私は上記の1年8か月前の事もあり、差し迫った異変をそんなに感じて無かったから、前回に比べて落ち着いてました。それでも十分な事をしてやれなかった事もあり、病院に残っていた姉の事もあり、葬儀の時に持たせてやろうと炊き込みご飯を炊いた。ただその日は連絡は無かったから姉に食べさせる事は出来なかったが、翌日治療に来たから持たせてかえらせた。母親の分は、2個の🍙にして冷凍しました。

タイトルの「今年の夏は」と言うより、今年の夏も色々ありました。(笑)

 

「先生、幸せに・・・」と、願われて。①

昭和63年5月頃より、事情あって治療院経営をしながら時間の都合を付けて西条市の某診療所に勤務を始めた。当時、パソコンやワープロ、今で言うIT関連の世界が目覚ましく進みだした頃だ。診療所勤めは、PCソフトを勉強する為や色々と金が必要と成った事から、収入の安定を図っての事だった。

勤めが始まった時、一つだけ心配な事があった。私より2~3日早く就職したソガ看護師から、非常に強い毒気が流れていたのだ。思わず勤め始めたばかりの診療所を辞めようかと思った程で、後々、本当に祟られて酷い目に会いました。
それでも順調に勤務も進んだのは良いが、10月に成り驚天動地の事故が起こった。午後5時を過ぎると、今治の私塾へコンピューター・ソフトを習いに行ってたのだが、授業が終わり帰宅途中、信号をぬけようとしていた所、真っ暗い所から赤信号を無視した老人が私の車に飛び込んだのだ。即死だった。避けようの無い事故であった。当時、この辺りの地方祭の最終日で、満月であったにも拘わらず雲がかかり、自販機の周辺以外は集落の集まった国道も真っ暗だった。で、「この事故の顛末は不起訴処分」。事件性の無い私の責任の無い事故として処理された筈だったのだが、色々と問題が出始めた。

死んだ老人の友人だったと思うが家族ぐるみの付き合いのあった一家が、私の担当していた患者として診療所へ鍼治療に来ていた。おまけに、婦長兼院長愛人だった愛人ハザマ看護師の友人一家。当面は、お互い気を揉みながら黙って仕事をしていが、ソガ看護師が私を妬んで作り話を愛人ハザマに喋り、ハザマがそれを院長に言い、当初は何事も無いままだったのが、業を煮やしたソガが汚い色気で院長子飼いの庭師を言い含めて、私を追い出しに掛かった。

ソガが私を妬んだ理由?、元々庭師達からも評判が良かった私は、当然のように患者や従業員からの受けが良く大事にされ続けてたから。それに、暇な時は事務所に居た関係でレセプトを書くのを手伝ったり、たまに院長が「これ知っとるか?」と言って、当時、話題に成ってた中国の言葉を幾つか持ってきた。私が何気なく反応した途端、その場に居た職員がパッと振り返った。「それって、○○○○じゃないですか」って答えると、院長曰く「やはり知ってたか」と言い、職員からため息が出た。事務長が院長の長男坊だった事もあり、「先生は、暇があったら本を読んでるし、何時も勉強してるからナ~。今迄の院長の質問に全問正解じゃ」と言う位、私の評価が良かった。

それに事務長の嫁さんが新居浜の同業者の姪っ子だった事もあり、ソガの妬みは増大し、私の事実無根の作り話を院長や愛人ハザマに言いだした。それでも私は黙っていると、気違い状態になったハザマが、拗ねた幼児がバタバタと暴れながら口汚く罵りだした。その余りの様子に、事務所関係者や頭から中立の立場を取っていた看護師などが全員振り返ってハザマを「どうしたん、この女」と驚いた様子で眺めていた程。

そしてソガは、世間常識の疎いハザマに常識的な何でも無い事を色々と知恵付けし、自分を知恵者のように振舞った。それを見ていた事務所関係者は「アホクサ~」と無視していたが、それがソガを苛立たせ、院長と愛人ハザマが私に対する嫌がらせを強くするように小細工をした。おまけに、愛人ハザマはソガにオモチャにされ、それを知らずに「曽我さん、それは私が、私が」と曽我を猫可愛がりし始めた。それでも、他の職員や入院の賄をしている院長家族や、入院している患者たちからは私に同情の声が上がり始めていた。

そして、この辺りに成る以前から、院長や愛人ハザマやソガの言動はテープに収められていたのですよ。当然、連中には解らないように録音しているのだが、相手に解らないように録音した私の行為を「盗聴した‼」と言う無知な人が居るのだが、私の行為は会話の当事者が録音したものだから「単なる記録」なのである。仮に盗聴だとしても、何の罰則も無いのである。ただ記録は証拠能力があるが、盗聴には証拠能力が無いのだ。

此処迄、ソガの主導で経営者側と庭師5人程のバカ男達が、私を本格的にイビリ出しに掛かったのは明白だったから、それらの多くの嫌がらせを院長に相談に行ったのを録音していたのだ。当然、パソコン関連の仕事をPCソフト教室の方に頼んでいたし、同級生の女性が新聞関連の仕事をしていから転職の相談もしていた。 こう言った場合、私のような人間はブラック社員と言うのだが、この診療所は前々から評判が悪かったからブラック企業なのである。愛人ハザマ&ソガの愚行を院長に「何とかしてくれ」と相談に行ったが、1週間ほどして呼ばれ、「連中に聞いたら、何もしてないと言う。それまで」と、小学生の相談に教師が木で鼻を括ったような回答しか出来ない程なのだ。頭が悪い証拠であり、仕事や自分の家庭より愛人との蜜月を選んだ訳だ。

そして新しい職場が見つからないまま、愛人ハザマの激しい口撃にプッツンした私は止める決意をした。ただ事務長が、「僕らは結局なんにもして上げられ無かったけど、先生は最後まで腕力に訴える事無く、紳士でとおしてくれた」と言われたがノ~(笑)。しして、その頃に入院してた患者さん達も、老若男女問わず「先生、幸せになってんね・・・」と送り出してくれました。

 

過ぎ去りし夏は

春先から新型コロナにやられて、天候迄もガタガタで、色々なイベントが飛んでいます。夏の高校野球が飛び代わりに違う格好で辻褄を合わせ、プロスポーツは無観客でやったが、やはりコロナ感染が見付かり、予防接種や治療薬の話も出てる割にスッキリとした話が無い。
「県外へは行かないように」と言った通達が出ていたが、多くの場合、普段の長距離は普通列車の旅をするのだが、コロナの影響で車で出掛け県外も当たり前(笑)。罰が当たったのか、[蜂窩織炎]と言うお相撲さんが掛かる病気に成り、[横紋筋融解症]までやって、ついでに[腎不全]迄。
2~3日ほど可笑しかった体調が、某日の昼過ぎから心身共に可笑しくなり、記憶が無かったり夢と現実の境が解らなくなったまま床に転がってました。丁度、姉が治療に来る日に発見されたのだが、二進も三進も行かないから救急車で運ばれて5日程入院。
医師に言わせると「本当は、1週間~週間の入院」だったのだが、自分の病状から察して5日。長くとも1週間で最悪10日と踏んでいたが、医師との交渉で「検査結果に依って日もオーケー」と言う事で、本当に5日で退院してきました。本当は、あと2~3日は居ても良かったんだが、退屈で退屈でと言う割にズットと暑さと疲れとで睡眠不足してたから結構寝てました(笑)。
その病気の後遺症が残ったまま退院してきたが、3か月経った今でも後遺症が残ったまま。救急車で運ばれた病院では内科医が担当だ退院してから2回程 通院して抗生剤が止まったから、掛かり付けの外科に勝手に転移(笑)。薬を出して貰ってるが、症状を事細かく説明し、自分で予測しながら勝手に計画的にするもんだから、随分と遣り辛い患者だと思う。
ガンで入院し、退院してからも真面目に定期検査には行ってた頃、外科の担当医に「この頃、あなた主導の治療に成ってる」って呆れられたが、「エッ‼それって普通じゃないですか?」と言うと、寂しそうに顔をそらしたっけ。でもね、何か月かした頃、大量下血をしたから検査入院をした時、「先生、私が生きてる間、先生がこの病院に居る間は、先生が担当医である事を忘れて貰っては困ります」って、検査に異常も無かったから検査終了直後に退院許可を貰って逃げるように帰ったのだが、帰る前に検査後は麻酔が掛かってるから気を利かした看護師が車椅子を持って来させたのだが、座る気は無いから持ってきてくれた看護師に「私が押してあげるから、乗って」と悪戯してたもんだから、解ってた担当医は随分と楽しそうに笑ってたっけ。

このガンで入院した時も7月~9月の間の約2か月強。あのまま死んでたら、歌の歌詞にある「あの夏の日が無かったら」って曲があるが、本当に一歩間違ってたら同じ事に成ってた。ただ曲の方は命の話ではなく、男女の別れ話の話(笑)。