Archive for the ‘独り言’ Category

親孝行と死ぬ事と犠牲になる事。

このタイトルじゃ、一体何を言いたいのかは解らない。そこで説明しましょう(笑)。
私が2~3歳頃から、親父に座敷へ呼ばれ正座させられ、説教なのか何なのか解らぬ話を聞かされた。親父にとって、私は大事な近藤家の跡取りだけに精神的に早く大人に成って欲しかった雰囲気があったのは幼心にも解る。でもね、2~3歳って年頃は、40歳も歳の差がある親に甘えたい年頃であり、近所の同学年の子供達と遊びた盛り。
だから親父が如何に素晴らしい事を言ってても、子供心には用事の無い話。逆に「年取ったら自然に身に着くワイ」と反感を持つだけ。その内、言うに事欠いて戦争中の話に成った。
「お父さんは、生き神様であり父親である天皇陛下を守る為、戦争に出かけて後一週間終戦が遅かったら特攻機に乗って出撃し、死んでいた」と、後々の常套句である。
「だからお前達子供は、特に男の子は親を守る為に犠牲に成って親を守らなければ成らない」と成る。「死んで親を守る事が親孝行であり、義務付けられている」。この話、時代錯誤以上に変な話ではあるが、2~3歳の、まだまだ白紙に近い脳みそに植え付けられたのだ。「子供は犠牲になり、死んで親を守るのが親孝行」と言う固定観念が出来ても仕方が無いだろう。[明らかな洗脳]である。だから、「死んで親を守る。親孝行をする」と言う部分が、二十歳位までは色濃く残っていたのも事実で、親父は最後まで「私にあらゆる面で犠牲を強いていた」のです。それこそ人権無視も良い所でしたよ。だが、この話をしても誰も信用してくれません。「お前の思い過ごしじゃ!!」と言って。

私は平均すると、多くの方々が体験した事の無い事を多く経験し見聞きしています。大昔、M清と言う国会議員がいた。テレビの政見放送があったから観ていると、「今度の選挙が終わったら、誰それ君が総理大臣になるのは明白で、彼と私は盟友だから、その節は私も大臣の椅子が貰えるから、当選させて下さい」とやっちゃったもんだから、確か落ちた筈。で政権放送の時の話を知り合いの本屋のオヤジにしたら、「そんな事あるか!!」と散々怒鳴り散らした。

このように、私が観た事・聞いた事・それもテレビの政見放送であった事を伝えても、聞き間違いで、私の事を嘘つき呼ばわり。だから、そんな輩には良い事も悪い事も何も言わなくなりました。すると、「お前は何にも言わないから、知らんのだろう」と無能無知呼ばわりしますよ。バカは困ります(笑)。

親父の話に戻ると、それこそ人権無視・人権侵害を家族に押し付けていたから、逝った瞬間、ホッとする部分もあった。ただ一つ、「女房と子供達が困らないように」と少し多めの金を残してくれたのは助かったが、姉が二人がこれを狙って暴れ、命まで狙われている。困ったもんです。(笑)

こう言う話を聞かせても、多くの人は「穏便に」と言うから、「録音物があるから聞いてください」って言うと、苦笑いしながら嫌がりますよ。

結局、親父は「子供は親の犠牲に成って当たり前!!。命を掛けて犠牲に成って当たり前!!」としたが、子供を持った多くの方親達は、そんな事を言いません。多くの場合「親は子供の為に犠牲に成って子供を守る!!」って言いますよね。中にはネグレクトなど児童虐待と言える行動で幼子の命を奪う親達の行動も、考え方や行動が子供達の命を犠牲にしているように思います。

昔の戦争映画を観ていると、特攻隊や死に行く兵隊さんは「天皇陛下万歳!!」って叫びながら死んでいくシーンが多かったように思うが、[連合艦隊]とか[男たちの大和]に成ると、「死ぬな、生きて帰ってこい!!」って言葉が当たり前に使われており、若い士官がズッと若い兵隊に、「これからは、お前達 若者が日本を救わねば」と、命綱を若者に譲り死んでいったシーンもある。

「終戦直後の日本人男性の平均年齢は幾つだったか?」と言う問いに、「ン~40幾つ」とか「50幾つ」と言う答えが返ったらしいが、私の記憶に間違い無ければ24歳位だったと思う。何故かと言えば「多くの働き盛りの男達は、戦争に取られて死んじゃったから、生き残りの多くが幼子赤子か高齢者・病人・怪我人ばかりだから」。これを考えると、私の父親の考え方は、戦争当時は間違いで無かったと言えるか(笑)。

 

私は朴念仁

私は、病的な朴念仁である(笑)。

令和12月も中盤を過ぎた現在、時期的なモノでJR東海の古いが名物のTVCMのXmas ExpressやCinderella Expressを観ている。YouTubeから撮ったモノ。山下達郎氏の曲だが、何年も経ってるのに古さを感じさせない。名曲である証拠。

この曲がテレビから流れても曲の美しさに気を取られており、歌詞のをほとんど聞いて無かったように思う。ただ端々で聞こえる歌詞に、恋をする女性の心の美しさを表現されているのに、何故か違和感を感じていた。と言うのも、昔から太めの体系の私は、多くの女性や心無いクソガキ男共から人間じゃ無いような言動でボロボロにされていた。特に女性陣と言うより、女性は随分ときつい言動で私を潰しに掛かってると思える内容を吐くんですね。男共も団体で暴力を振るいにくる。だから、私の表情は時によって能面のような表情で黙っていた部分もありました。と言うのも、友人と話をしていて笑っても、言い掛かりをつけて暴力を振るいにきた輩が居るんです。だから、その対策として高校一年の時から空手を習いかけたんです。見事に的中しましたよ(笑)。

こう言った幼い時の経験から、愛の歌なんかで愛とか恋とか色々と表現しても、作り事とバッサリ断じてました。そこには、母親と二人の姉の存在がある。他人の前では余所行きの綺麗な言動で飾っても、家に帰るとそれはそれは口に出して言うのも憚れる事ばかりの言動。そのギャップが不気味で気持ちわるく、女の強かさを観たようで怖い(笑)。

それに、病院勤務をしていた関係で、年頃(笑)に成った私に嫁さんを世話する話が沸き起こる。当然、私を気に入った患者さん達が結婚の世話をしようとする。「先生、嫁さん居るん?」「彼女、居るん?」「婚約者、居るん?」と賑やかだった。「居ない」と言うと「釣書き用意して」という。しかし、誰も用意した釣書きを寄こせと言わない。「ヤッパリな~」と思いながら切り出すと、「太いと言ったら、みな嫌ジャ言うた」と言う話。ボディ・ビルダーを見ても肥満体と言う女が沢山居るんですね。

10個程そんな話があってからキレまして、数を数えたらトータルで80幾つ。その内、見合いに進んだのが10個程。それも全部が太いと言う断り。ただ一つ、私から断ったのが1つだけ。理由は釣書きに入っていた写真を見て「頭が悪い」って断った。普通、女性の場合、服のコーディネートって素晴らしいモノを持ってるのに、結婚適齢期なのに中学生位の女性の服装だったから。この辺りで、頭の良し悪しを判断されるとは思わなかっただろう。

そんなこんなで、恋愛には一切縁が無かったし、結婚問題に関して私が鍼灸師である事が罪であるような言動を取る女性が多く、非常に傷付けられる事が多かった。殆どが社会的地位と見た目の悪さで結婚問題が潰れていったんですね。だから、歌の文句で幾ら綺麗事言ったって、「アホクサ~!!馬鹿じゃないんか!!もっと現実を正しく見ろよ!!」と心底思ってましたね。

そんな私に人生最大のモテ期が来たんですね(笑)。まず一つ、相思相愛的に気に入ったが飛んだ邪魔が入って潰れた。そして二つ目、やはり結婚に縁が薄かった従妹と結婚しようかと。そして三つ目、同時期に二つ話が来てたので話の早かった方に会い付き合いだした。それが今の嫁さん。もう片方は、本人も家族も一押しだったらしいが困りました。

ただ結婚後、女性の心の在り方に不信感を拭い切れなかった私は、さぞ酷かったと思う。ただ病気をして入院した時、妻は仕事から帰って食事を済ませると、ネットで夜中の2時3時まで代替医療を探し、見付かったのを早速試してみると私にはズバリ適合!!愛情の賜物と思ったですよ。そして退院しても、私の為に色々と努力を惜しまなかったですね。

手術したのが8月。9月に入って直ぐ退院したが1年と余命宣告を受けていた。娘が九州の大学に居たから、地方祭期間を利用し様子見を兼ねて福岡へ。妻は木曜日午後に出発。息子は金曜日が普通通りの授業で土曜日が半ドン。結局、土曜日は出席日数の加減での出席だから休ませ、二人で金曜日の夜に松山観光港から出発。途中、スペース・ワールドへ行きたいと言ってたから3時間ほど遊んだのは良いが、駅へ行くと人身事故があって電車が止まっている。それも福岡方面で事故ってるから迷惑だ。それでも1時間少々で電車が走りだした。

そこへ女房から電話が掛かった。走行中の電車内ははご法度扱いだけに、「いま電車内だぞ」「解ってる」と言ってる間、周囲からの視線の矢が我が身に刺さる(笑)。この時点で、我が家で携帯電話を持ってるのは私と大学へ行った娘のみ。だから待ち合わせ場所っても時間がズタズタに成ってるし、私の身を案じてるの解るから、「スペース・ワールド駅を出たのが●●時頃だったから、緑の窓口へ行って●●時のワールド駅発の準急は何時頃に成るか聞いた方が早い。だって、九州へ今朝上陸したばかりだから何も解らん」。此処で、ようやく刺さっていた視線の矢が減りだしました(笑)。失礼な車内通話をしてる相手が遠くから来て、電車の事故で何もかもガタガタに成ってるのを心配した家族からだと解って、まだ邪魔をする者は居なかったようで(笑)。

そして福岡駅に到着し、言われていた中央改札口に向かってると、大きな柱の傍で妻が手を振っている。顔を見ると、今にも泣き出しそうな顔をしている。この時は、さすがに息子の心配より私を優先したようだ。だって、大手術をして僅か2か月半、新居浜から九州へ入り、時間待ちを兼ねて息子に朝食を食べさせ、息子のたっての願いでスペース・ワールドで暫しの楽しみをさせ、事故で電車が遅れたのだ。顔を見ると、埃で変に薄黒く成っていたようだが、特別 体の異常は無いとみたようだ。

この時、初めて歌の文句・歌詞に書き込まれていた愛とか恋とかをウッスラと体感したように思う。それ迄、虐め抜かれて傷着いた事しか考えられて無かった事を恥じる一瞬でもあった。考えてみると、結婚し子供が生まれてから女性にモテだしたような気がする(笑)。きっと思い過ごしだろう(笑)。それも、女房が辛い思いをして私を良い男にしたのかも知れない。

余禄を一つ。地元の住民は良い病院と言うが、他の医療施設の職員から悪い噂しか聞こえなかった。だから私が色々と話すと、「ヤッパリ、あの噂は本当なんだ」言う言葉。なのに、勤めていが検査技師に「お前なんか嫁さん来るか!!」とか物療の男にが「結婚できんぞ」とか言われ、とどのつまりは結婚式の時に読んだサザエサンのフグタさん状態の星加晃が、もと勤めていた病院医師と言う事で呼んでやってたのに、終宴直前に私達の所に来て、女房に言いました。「あんた、何でこんな男と一緒に成ったん」って。このような人格しか持ってない人間が医者だってネ~。医者として大した腕も無いから年寄り病院に鞍替えしちゃってサ~(笑)。

 

令和2年11月26日の木曜日の恐怖?

夜7時、三食分の飯(夜朝昼)を買いに、近所のスーパーへ。駐車場に車を停め店内に。歳を取るとトイレが近い。店内に入ると、トイレが別通路に成ってるので入って用を足し、店内へ行く通路を見ると私より若い女性が身繕いしながらホールへ向かった。そのままホールへ入り売り場へ行ってくれたら良いのだが、まだ身繕いしながら足が止まり背伸びを始めた。それでも直ぐ歩き始めるだろうと待ってが動かない。10秒ほどして小さな声で「済みません。通らせて下さい」って言うと、気が付いて無かった格好で慌てて振り返った途端、私の顔を見て「ギャ~~~!!」と、断末魔の声を上げ、私の傍を通り抜け今来た通路を後戻りして傍の柱にしがみ付いた。「なんと失礼な!!」とチラッと振り返ると、まだ柱にしがみ付いたまま私の顔を恐怖の眼差しで見ている。「馬鹿が!!失礼にも程がある!!」と言って買い物を済ませた。

この日は障碍者の世話をする日で福祉センターへ行き、終わってからリーダー格の友人と24H営業の大型スーパーへ行った。買い足りない物を買いレジで会計を済ませ、再びトイレへ行った。しばらくすると誰かが入って来て、徐に凄い勢いで手を洗い掛けた。私も用が済んだから手を洗いたいが、体格の良い彼が勢いよく手を洗ってる。トイレも終わってたから慌てる事も無く、彼が手を洗い終えるまで左の扉に腰を当て、右手でドアを押して待っていた。ようやく手も洗い終えた彼が顔を上げた瞬間、鏡に映っている私の顔を見た瞬間に目が会った。その途端、「ギャ~~~!!」と悲鳴を上げた。しかし、さすが男だ。「ア~ッ、ビックリした。誰も居ないと思ってたのに・・・済みません」「いいのいいの。私も声を掛けたらよかったんだけど。実は今日、トイレで私の顔見てその恐怖で叫んだのは、貴方で二人目。もう一人はオバちゃんだったけど」って笑ってると、「済みません、僕は少々チキンなもんで」って恐縮して出て行った。

そして障碍者の友人と合流し、彼は煙草を買う為にサービス・カウンターへ。その時にトイレで二度も私の顔を見て叫ばれた話をすると、「僕はもう慣れました」と言う。これでこの日は三度目。その話をカウンターの女店員さんに言うと、「皆さん、慣らしてあげて下さい」だと。ヤッパリ、私の顔は怖い?

 

「立ちション」の話

尾籠な話だが、これは立派な軽犯罪法違反に成るからご注意。立ちションと言えば男性の特権だと思われがちだが、実は女性でもやっちゃうんですね(笑)。
私が小学生の頃の話だが60年程程前の話で、通学途中の道淵に三角形の軽四位のスペースがあり、昔の事だから、何本もの細い道路や川や橋が複雑に入り組んだ所にあった土地だ。周囲には小さな機織工場があったり醤油工場があったりする地域。
毎朝、同じ通学路を通って言うのだが、何時しか工場群の建物の間から和服姿のオバアチャンが出てきて、着物の裾を少しだけ開け、お尻を少しだけヒャイと後ろに突き出すと。シャ~!!って音がする。着物の裾で、何が起こったかは分らない。
「何・・・今のは」と思いなら傍を通り過ぎながら見ると、土が濡れている。明らかに今、何か撒いたと言うより、一連の様子から明らかに立ちション。通学時間帯だけら朝も早いし少々冷えるし、和服で和式トイレは使い辛いと思うが、経験が無いから解らない(笑)。
その時、「和服姿の女の人でも、立ちションが出来るんだ!!」と言った事実を垣間見て、家に帰って母親に聞いたら、「何バカな事を言よるんね」と無視された。父親に聞いても黙って無視される。そのままスッカリ忘れていたが、思い出したので書いてみました(笑)。

 

楽しいニュースは無いのか!!

相変わらずのコロナの情報と、アメリカ合衆国の選挙の話で一日が終わっている気がして成らなかった。それでもアメリカ合衆国の選挙はケリが着いたようで。

選挙と言えば、11月15日に新居浜市の市長選があるのだが、どちらにしても大した代わり映えは無いように感じる。それよりも、多くの新居浜市民は自分達の住む新居浜市の発展を願っているのだろうか。答えはノー。

一番の答は,社会党の市長を長期間当選させた為に、国道にしろ県道にしろ、国や県の公共事業が軒並み後回しにされ、四国主要国道のR11のバイパス事業が後何年かかる事やらの状態。

市の中心部を南北に貫いている主要県道も、四車線化の6㎞そこそこの長さなのに、着工命令が出て60年以上も経つのに国道11で止まったまま。これも社会党市長が原因。残り2㎞なのに。

東予地域5市町村の中核とすべき、合併した四国中央市(川之江&伊予三島&土居町)の利便性を考え、保健所を新居浜に作る計画だったのに、仕事をしたくない市民の反対運動で西条市に追いやった事。

現在、香川県丸亀市の[まるがめボート]。これも新居浜市荷内と大島の間にコースを作って[にいはまボート]とするべき所、「公営博打なんか作ったら、ヤクザが沢山きて風紀が乱れる」と大反対して、結局は丸亀に。今の丸亀市はどうなってるか?地場産業の多くが駄目に成り、市役所前の繁華街なんかもシャッター通りになってるが、[まるがめボート]のお陰で市としての体裁を守れているのだ。

この頃、企業公害の問題も大きく取沙汰され、住友の企業城下町にも拘わらず、漁民たちが腐った大型の魚を、まだ真新しかった市役所に運び何匹もロビーに投げ込んだ事件もある。これはニュース映像でも出たから観た人は結構いる筈。そして住友を指し「郊外企業は新居浜から出ていけ!!」と大暴れをした為、何社かが出て行こうとした話だが、偉い人が間に入って出て行く事は無かったようだ。

そして選挙の話。もう42年程前の話。選挙当日に所用があるから期日前投票に行ったのだが、仮設の投票所で若者が「明日の投票日に来れないのか?」っと聞く。「来れないから今日来た」「仕事ですか?旅行ですか?」とネチネチと同じ事を聞く。最初は腹立ち紛れに黙って相手をしてやってたが、昼休み時間が終わる事に成ったので、「投票して帰らないと午後の仕事に差し支えるから、投票させろ」と言うと、「じゃあ、選挙当日に気投票会場に言って下さい」としつこく言うから、「行けないから今日来たの」「それはウチの責任じゃ無い」と言い出したから、「ジャア、帰るね。ガソリン炊いて期日前選挙に来て、市職員に選挙妨害されて投票も出来ないなんて、信じられわ」と言って帰宅しようとしたら「してください」と言うから投票用紙を受け取りに行くと、「当日に来てください」と言うから、「馬鹿か!!」と言って出口に行くと何か声を掛けてきたから、黙って帰りました。それからは期日前投票をしなければいけない時は、頭っから投票しませんでした。

すると余りにも投票率が40%代に落ちたもんで、選挙妨害は無くなったようです。とう言うのも、4年程前に選挙があり、所用があり期日前投票に行くと、私より少し若い職員が一人で番をしており、スムーズに投票が終わったから、「今日は投票妨害が無かったから、スムーズに終わりましたわ」「昔から投票妨害はしてないですよ」「私は何回もやられたから、ここ40年近く期日前投票には来なかったですよ」「そんなに酷かったですか?話には聞きますが」「私が午後の仕事を辞めて妨害する連中の相手してたら、それこそ陽が暮れても投票はさせて貰えんかったでしょうね」「・・・」と言う具合。実を言うと、投票妨害されるのを前提でデジタル録音機を持って行ったが、残念ながら空振りでした(笑)。

 

和服と階段

金毘羅さんは、小学校6年生の頃に修学旅行に行ったのが初めてで宿泊場所であった。高松市の屋島・金毘羅さん・国営まんのう公園が主な見物先だが、高速道路や国道その他の道路整備が整った現在なら、日帰りのコースである。その後も、親父が田舎では珍しい自家用車を持っており、周囲からは「お前ん家、ハイヤーが有るんな」って言われてた位のド田舎の話(笑)で、正月に成ると親父が「金毘羅さんへ行こう」と号令が掛かった場所だ。

その親父も金毘羅さんへ行くのも、まだまだ道路事情が悪かった関係で知らぬまに行かなくなった。私と言えば、二輪免許は二十歳で取り、四輪免許は22歳で取った程だから、一人で行くには鈍行列車で行くのが安くて手っ取り早い移動方法でしたね。帰りは当然のように呑んでたです(笑)。

ある年も一人で鈍行列車で行き、本殿に向かう長い階段を上りだした。この年は、参拝者が多いように感じた年で、階段で進んだり止まったりしている。周辺は土産屋がズラ~ッ並んでいるから、店頭の土産を品定めしながら歩いていると、流れが止まったのに気が付かず、前を歩いていた妙齢のお嬢さんのお尻を突き飛ばすところだった(笑)。

それでもセ~フだったから知らん顔して歩いていると、視野に変な感覚のモノが映り込む。何だろうかと思ったら、若いが故に少しムチムチのヒップラインに、ハッキリ&クッキリとパンティ・ラインが出てるのである。これは着付けをした人の責任。だってね~、一段一段が少し高目の石段。2~3段も離れたら、私の目の前にヒップが見えるんです。それも歩く度にクネクネト動く。これで気に成らないと言えば大嘘だと思う(笑)。さすがジ~ッと凝視していては変態扱いされ兼ねないから視線を移動はさせていましたがね(笑)。色っぽい話を思い出したら、追加書きしますね(笑)。

そして、この金毘羅さんは夜の参拝も趣があるから行って見られてら良いかと。私は何度か白黒フイルムを入れたカメラで撮影に行きました。雰囲気は良いですよ。

 

壊滅した日本赤軍派

古い話で申し訳ないが、河合楽器の別荘が赤軍派に乗っ取られ警察と銃撃戦が行われた事を覚えていますか?僅か48年程前の事件である。その後、20年程前に「突入せよ」と言うタイトルの映画で思い出された方も居られるのではないだろうか。こう言ったドキュメントタイプの映画が出ても、興味を示すより、その映画に敵意を持つ方々も居るから難しい話だ。

事件当時、多くの民放が専属のチームを作り、現場に張り付けて垂れ流し状態で映像を流し続けていた。ある日、タバコ屋の前を通り掛かると、店番の婆さんが現場の映像を見ていた。面白半分で、「婆ちゃん、現場はどんなに成っとる?」と声を掛けたら、「何で軍隊を呼ばんのかね~」と言う。
軍隊は既に解体され、自衛隊と言う形になっており、当然だが警察権が無いから事件があっても顔出しは出来ない。言っても無駄だから黙ってると、何度も「軍隊を」って言うから気の毒に成り、「婆ちゃん、日本には軍隊が無いから、ああやってお巡りさんが対処しているんよ」と言っても、「軍隊」「軍隊」と言うから、その場を離れた。老女にしてみれば、お巡りさんと言えば泥棒を捕まえたり、駐車違反を取り締まったり、する位の事しか見て無いから、赤軍派と銃撃戦をしてる姿を見てもピンと来ないのは解る。

それと「突撃せよ」の中で、警察官の食事にカップ・ヌードルが出たのだが、失礼だが一瞬笑ってしまった。でもね、その理由は直ぐに分かった。
あの極寒の中で、腹を空かせた警察官の腹を満たすにはと考えた場合、普通の弁当では駄目。温かく、腹を一杯にできる食べ物と言うと麺類。だが何百人もいる警察官の食器やら何やらを考えた場合、後始末まで考えると普通の食事では駄目。で思いついたのが、僅か数年前に発売された日清のカップ・ヌードル。嫌な宣伝をしてしまった(笑)が、温かい食事,お腹が満たされる、作るのも湯を注いだら良いだけで、食器も使わないか後始末も楽と、何もかも直ぐに間に合う効率を考えた場合、ベストの食事だった訳だ。
こんな話をすると、物知りの方々は即「栄養の問題が!!」と言われるが、何か月も何年も副食も食べ無いで三食カップ・ヌードルだけを食べる訳じゃない。緊急避難時の食事なんですよ。戦時中、戦闘が始まる前には握り飯二個とタクアン二切れが昼飯とか戦闘食とか呼ばれる非常食が出されていたのですね。戦闘が長くなれば当然、生き残った兵隊さんの腹が減る。食事係の兵隊さんは握り飯とたくあんと水を、飛んでくる敵の弾を掻い潜りながら配っていたという話。

この時の映像に映し出されたカップ・ヌードルの山は、CMとして制作し使うなら、本来なら製作費や放映料が幾ら掛かるか解らない位の宣伝効果があったと言う。その証拠に、映画が上映されるまでボチボチとしか売れて無かったのに、それこそ爆発的と言える位の量が売れ始めたという。
そして今では国民食となり、種類もたくさんできましたね(笑)。

 

人生とは

年が齢的な部分が老人の域に達し、孫が二人産まれ、気が付くと結婚してない息子が居る。結婚しないといけない規則は無いし、結婚しても離婚する夫婦が増え、離婚した夫婦は別の異性と性的快楽に進むケースが多い。
私が結婚した頃、随分と仲の良かった知人にも披露宴に列席して頂こうと何度も声を掛けたが断られた。そして結婚後、ご主人から驚くべき話を聞いた。奥さんに男が居たのだ。そして離婚を切り出した時の第一声が、「子供は要らないから別れてくれ」だったと言う。面白い事に後々解る事だが、主人以外の男ができた場合、離婚を申し出る時の御約束の第一声のようだ。何故なら、この時期に三人の知人男性が嫁さんから同じ言葉を吐かれて驚天動地の心境になったと言う。当然、嫁さんが主人と別れる決心をさせた間男は、何等かの理由で独身の場合が多いようだ。嫁さんが離婚を考え言葉を発した時は、立派な不倫妻に成ってるのだ(笑)。

そして後二組、「子供は要らないから別れて」と言いつつ別れた夫婦が居るが、その内の一組は最悪で籍も抜けて無いのに間男の元に走り、あろう事か間男の子を妊娠したと言うから立派としか言いようが無い。

一組目の不倫妻は旦那の元から逃げて、五人目の男に殺された。丁度、某年12月30日の昼のニュースに出た程だから、ラジオ代わりに付けてたテレビには殺された不倫妻の写真が出たから「やっぱり」と言いながらでもショックだった。

これも人生~♬と言うには生臭い話だが、最近・・・(笑)

 

何度も言いたい、「今年の夏は‼」

例年、暑い夏は「今年の夏は‼」と言い、寒い日の多い冬は「今年の冬は‼」って言ってる気がする(笑)。
ただ70歳近く成ってくると、体力の衰え・気力の衰えを感じだす。この話をすると、私より高齢の方々から「何を戯けた事を‼ 私等、アンタの年齢の時は病気もした事は無い‼」と、よく言うからジックリと話を聞かせて貰うと、なんと病気ばかりをしていたり、「シンドイ」と言ってダラダラ寝てばかりしていた事が発覚(笑)。話した本人も苦笑いしている。でもね、たまに寝込んでも本当に「シンドイ」と言わない人も居る。

今年の夏、救急車のサイレンの音が例年より多い気がしていたが、まさか自分が運ばれる事に成るとは思わなかった。その直接原因は脱水症から[蜂窩織炎]から[横紋筋溶解症]や[腎不全]まで引き起こしていたのだ。昼過ぎから心身共に可笑しく成り、身体に力が入らず床に転がったまま。治療に来た姉に発見され救急車で運ばれて、医者と話し合いで私のペースで治療が進み、本当に5日、正確には4日半で退院したのです。治療に来ている看護師さん等に「蜂窩織炎に成って・・・」って言っただけで、皆さん驚愕するのです。そして「5日で退院した」って言うと、「恐ろしい生命力じゃ‼」と言われたのです。

老人施設に預けてる97歳の母親が9月1日に様子がおかしくなり、病院へ運び込まれたらしく施設から電話が入った。それも今にも死ぬような言い方だったから、姉に連絡して行ったのだが、病院まであと10分程の時に「何処に居る、何をしよる‼」と言う電話が掛かった。朝一の電話もだったが、平素は女性が掛けてくるのに男が掛けてきた。それだけに語気のつ強さにカチンときてる。病院到着後、すぐに母親の所に通されたが、最高血圧が100以下に落ちてるし、医師は「もうすぐ死ぬ」発言をする。

実を言うと、母親の死にかけは二度目(笑)。最初は昨年の1月。だから1年8か月前。この時も、起床させ着替えさせてベッド脇に座らせた途端、様子が急変。慌てて病院に連れて行き、外来看護師が待機する玄関先に止め、ドアを開けた看護師が母親の異変に気が付いたと言う。そう、心臓が止まってたんですね。そのまま車の中で心臓マッサージをして事なきを得たという。

この時も朝8時過ぎに電話が掛かって「即病院へ」と言われたが、新病院は少し遠い所に建てて場所を知らなかったから到着迄1時間以上かかった。到着し処置室に通されたが、心臓が動き出して眼も開けたままだが、看護師達が「もう死ぬ」と思い込んでるから皆で立ってるだけ。一人の看護師が「顔を見てやってください」と言う。瞬きもしないままジッと天井を見ている。再び看護師が「何か声を掛けてあげて下さい」と言う。「・・・婆さんよ、シンドイか?」と声を掛けると、ギロッと私の顔を見たと思ったら目があった。その瞬間、私は「命を吸われた」と思った。

医師曰く、「持って今日一日」と言う事だったが、色々と誤算があった。アメリカの姉に連絡しても帰国2~3日先。それを医師は、「延命治療は断られたが、アメリカの人が帰ってくるまでは生かせときましょう」の案に同意したのだが、誠に凄い事に成りました。

心臓が止まった翌日に食べ物を要求されたからゼリーを食べさせたら幾つか壁たという。その翌日「何か食べたい」と言うので柔らかい物を食べさせ、その翌日「腹が空いた」たと言うので食事をさせたと言う。それ以来、元気に成り復活したのだが、[もう死ぬもの]と思って仕事が終わると毎日、片道40分の道のりを毎日通ったのだが、最初は何か言ってるのだが充分聞き取れなかったが、日を追う毎に「寒いのに暗くなって、気を付けて帰らんかいよ」とハッキリと聞き取れ出し、1週間目には元気な年寄りと何ら変わった風の無い言葉に成ってました。そして何日かして退院。施設に戻ったのだが、何週間かは「奇跡が思った」と言われてました。

そして今回、心臓こそ止まらなかったが血圧かスーッと落ちてしまい、慌てて私の所まで「すぐ死ぬ」感覚の連絡をしてきたのです。でも、私は上記の1年8か月前の事もあり、差し迫った異変をそんなに感じて無かったから、前回に比べて落ち着いてました。それでも十分な事をしてやれなかった事もあり、病院に残っていた姉の事もあり、葬儀の時に持たせてやろうと炊き込みご飯を炊いた。ただその日は連絡は無かったから姉に食べさせる事は出来なかったが、翌日治療に来たから持たせてかえらせた。母親の分は、2個の🍙にして冷凍しました。

タイトルの「今年の夏は」と言うより、今年の夏も色々ありました。(笑)

 

「先生、幸せに・・・」と、願われて。①

昭和63年5月頃より、事情あって治療院経営をしながら時間の都合を付けて西条市の某診療所に勤務を始めた。当時、パソコンやワープロ、今で言うIT関連の世界が目覚ましく進みだした頃だ。診療所勤めは、PCソフトを勉強する為や色々と金が必要と成った事から、収入の安定を図っての事だった。

勤めが始まった時、一つだけ心配な事があった。私より2~3日早く就職したソガ看護師から、非常に強い毒気が流れていたのだ。思わず勤め始めたばかりの診療所を辞めようかと思った程で、後々、本当に祟られて酷い目に会いました。
それでも順調に勤務も進んだのは良いが、10月に成り驚天動地の事故が起こった。午後5時を過ぎると、今治の私塾へコンピューター・ソフトを習いに行ってたのだが、授業が終わり帰宅途中、信号をぬけようとしていた所、真っ暗い所から赤信号を無視した老人が私の車に飛び込んだのだ。即死だった。避けようの無い事故であった。当時、この辺りの地方祭の最終日で、満月であったにも拘わらず雲がかかり、自販機の周辺以外は集落の集まった国道も真っ暗だった。で、「この事故の顛末は不起訴処分」。事件性の無い私の責任の無い事故として処理された筈だったのだが、色々と問題が出始めた。

死んだ老人の友人だったと思うが家族ぐるみの付き合いのあった一家が、私の担当していた患者として診療所へ鍼治療に来ていた。おまけに、婦長兼院長愛人だった愛人ハザマ看護師の友人一家。当面は、お互い気を揉みながら黙って仕事をしていが、ソガ看護師が私を妬んで作り話を愛人ハザマに喋り、ハザマがそれを院長に言い、当初は何事も無いままだったのが、業を煮やしたソガが汚い色気で院長子飼いの庭師を言い含めて、私を追い出しに掛かった。

ソガが私を妬んだ理由?、元々庭師達からも評判が良かった私は、当然のように患者や従業員からの受けが良く大事にされ続けてたから。それに、暇な時は事務所に居た関係でレセプトを書くのを手伝ったり、たまに院長が「これ知っとるか?」と言って、当時、話題に成ってた中国の言葉を幾つか持ってきた。私が何気なく反応した途端、その場に居た職員がパッと振り返った。「それって、○○○○じゃないですか」って答えると、院長曰く「やはり知ってたか」と言い、職員からため息が出た。事務長が院長の長男坊だった事もあり、「先生は、暇があったら本を読んでるし、何時も勉強してるからナ~。今迄の院長の質問に全問正解じゃ」と言う位、私の評価が良かった。

それに事務長の嫁さんが新居浜の同業者の姪っ子だった事もあり、ソガの妬みは増大し、私の事実無根の作り話を院長や愛人ハザマに言いだした。それでも私は黙っていると、気違い状態になったハザマが、拗ねた幼児がバタバタと暴れながら口汚く罵りだした。その余りの様子に、事務所関係者や頭から中立の立場を取っていた看護師などが全員振り返ってハザマを「どうしたん、この女」と驚いた様子で眺めていた程。

そしてソガは、世間常識の疎いハザマに常識的な何でも無い事を色々と知恵付けし、自分を知恵者のように振舞った。それを見ていた事務所関係者は「アホクサ~」と無視していたが、それがソガを苛立たせ、院長と愛人ハザマが私に対する嫌がらせを強くするように小細工をした。おまけに、愛人ハザマはソガにオモチャにされ、それを知らずに「曽我さん、それは私が、私が」と曽我を猫可愛がりし始めた。それでも、他の職員や入院の賄をしている院長家族や、入院している患者たちからは私に同情の声が上がり始めていた。

そして、この辺りに成る以前から、院長や愛人ハザマやソガの言動はテープに収められていたのですよ。当然、連中には解らないように録音しているのだが、相手に解らないように録音した私の行為を「盗聴した‼」と言う無知な人が居るのだが、私の行為は会話の当事者が録音したものだから「単なる記録」なのである。仮に盗聴だとしても、何の罰則も無いのである。ただ記録は証拠能力があるが、盗聴には証拠能力が無いのだ。

此処迄、ソガの主導で経営者側と庭師5人程のバカ男達が、私を本格的にイビリ出しに掛かったのは明白だったから、それらの多くの嫌がらせを院長に相談に行ったのを録音していたのだ。当然、パソコン関連の仕事をPCソフト教室の方に頼んでいたし、同級生の女性が新聞関連の仕事をしていから転職の相談もしていた。 こう言った場合、私のような人間はブラック社員と言うのだが、この診療所は前々から評判が悪かったからブラック企業なのである。愛人ハザマ&ソガの愚行を院長に「何とかしてくれ」と相談に行ったが、1週間ほどして呼ばれ、「連中に聞いたら、何もしてないと言う。それまで」と、小学生の相談に教師が木で鼻を括ったような回答しか出来ない程なのだ。頭が悪い証拠であり、仕事や自分の家庭より愛人との蜜月を選んだ訳だ。

そして新しい職場が見つからないまま、愛人ハザマの激しい口撃にプッツンした私は止める決意をした。ただ事務長が、「僕らは結局なんにもして上げられ無かったけど、先生は最後まで腕力に訴える事無く、紳士でとおしてくれた」と言われたがノ~(笑)。しして、その頃に入院してた患者さん達も、老若男女問わず「先生、幸せになってんね・・・」と送り出してくれました。