人生とは

年が齢的な部分が老人の域に達し、孫が二人産まれ、気が付くと結婚してない息子が居る。結婚しないといけない規則は無いし、結婚しても離婚する夫婦が増え、離婚した夫婦は別の異性と性的快楽に進むケースが多い。
私が結婚した頃、随分と仲の良かった知人にも披露宴に列席して頂こうと何度も声を掛けたが断られた。そして結婚後、ご主人から驚くべき話を聞いた。奥さんに男が居たのだ。そして離婚を切り出した時の第一声が、「子供は要らないから別れてくれ」だったと言う。面白い事に後々解る事だが、主人以外の男ができた場合、離婚を申し出る時の御約束の第一声のようだ。何故なら、この時期に三人の知人男性が嫁さんから同じ言葉を吐かれて驚天動地の心境になったと言う。当然、嫁さんが主人と別れる決心をさせた間男は、何等かの理由で独身の場合が多いようだ。嫁さんが離婚を考え言葉を発した時は、立派な不倫妻に成ってるのだ(笑)。

そして後二組、「子供は要らないから別れて」と言いつつ別れた夫婦が居るが、その内の一組は最悪で籍も抜けて無いのに間男の元に走り、あろう事か間男の子を妊娠したと言うから立派としか言いようが無い。

一組目の不倫妻は旦那の元から逃げて、五人目の男に殺された。丁度、某年12月30日の昼のニュースに出た程だから、ラジオ代わりに付けてたテレビには殺された不倫妻の写真が出たから「やっぱり」と言いながらでもショックだった。

これも人生~♬と言うには生臭い話だが、最近・・・(笑)

 

何度も言いたい、「今年の夏は‼」

例年、暑い夏は「今年の夏は‼」と言い、寒い日の多い冬は「今年の冬は‼」って言ってる気がする(笑)。
ただ70歳近く成ってくると、体力の衰え・気力の衰えを感じだす。この話をすると、私より高齢の方々から「何を戯けた事を‼ 私等、アンタの年齢の時は病気もした事は無い‼」と、よく言うからジックリと話を聞かせて貰うと、なんと病気ばかりをしていたり、「シンドイ」と言ってダラダラ寝てばかりしていた事が発覚(笑)。話した本人も苦笑いしている。でもね、たまに寝込んでも本当に「シンドイ」と言わない人も居る。

今年の夏、救急車のサイレンの音が例年より多い気がしていたが、まさか自分が運ばれる事に成るとは思わなかった。その直接原因は脱水症から[蜂窩織炎]から[横紋筋溶解症]や[腎不全]まで引き起こしていたのだ。昼過ぎから心身共に可笑しく成り、身体に力が入らず床に転がったまま。治療に来た姉に発見され救急車で運ばれて、医者と話し合いで私のペースで治療が進み、本当に5日、正確には4日半で退院したのです。治療に来ている看護師さん等に「蜂窩織炎に成って・・・」って言っただけで、皆さん驚愕するのです。そして「5日で退院した」って言うと、「恐ろしい生命力じゃ‼」と言われたのです。

老人施設に預けてる97歳の母親が9月1日に様子がおかしくなり、病院へ運び込まれたらしく施設から電話が入った。それも今にも死ぬような言い方だったから、姉に連絡して行ったのだが、病院まであと10分程の時に「何処に居る、何をしよる‼」と言う電話が掛かった。朝一の電話もだったが、平素は女性が掛けてくるのに男が掛けてきた。それだけに語気のつ強さにカチンときてる。病院到着後、すぐに母親の所に通されたが、最高血圧が100以下に落ちてるし、医師は「もうすぐ死ぬ」発言をする。

実を言うと、母親の死にかけは二度目(笑)。最初は昨年の1月。だから1年8か月前。この時も、起床させ着替えさせてベッド脇に座らせた途端、様子が急変。慌てて病院に連れて行き、外来看護師が待機する玄関先に止め、ドアを開けた看護師が母親の異変に気が付いたと言う。そう、心臓が止まってたんですね。そのまま車の中で心臓マッサージをして事なきを得たという。

この時も朝8時過ぎに電話が掛かって「即病院へ」と言われたが、新病院は少し遠い所に建てて場所を知らなかったから到着迄1時間以上かかった。到着し処置室に通されたが、心臓が動き出して眼も開けたままだが、看護師達が「もう死ぬ」と思い込んでるから皆で立ってるだけ。一人の看護師が「顔を見てやってください」と言う。瞬きもしないままジッと天井を見ている。再び看護師が「何か声を掛けてあげて下さい」と言う。「・・・婆さんよ、シンドイか?」と声を掛けると、ギロッと私の顔を見たと思ったら目があった。その瞬間、私は「命を吸われた」と思った。

医師曰く、「持って今日一日」と言う事だったが、色々と誤算があった。アメリカの姉に連絡しても帰国2~3日先。それを医師は、「延命治療は断られたが、アメリカの人が帰ってくるまでは生かせときましょう」の案に同意したのだが、誠に凄い事に成りました。

心臓が止まった翌日に食べ物を要求されたからゼリーを食べさせたら幾つか壁たという。その翌日「何か食べたい」と言うので柔らかい物を食べさせ、その翌日「腹が空いた」たと言うので食事をさせたと言う。それ以来、元気に成り復活したのだが、[もう死ぬもの]と思って仕事が終わると毎日、片道40分の道のりを毎日通ったのだが、最初は何か言ってるのだが充分聞き取れなかったが、日を追う毎に「寒いのに暗くなって、気を付けて帰らんかいよ」とハッキリと聞き取れ出し、1週間目には元気な年寄りと何ら変わった風の無い言葉に成ってました。そして何日かして退院。施設に戻ったのだが、何週間かは「奇跡が思った」と言われてました。

そして今回、心臓こそ止まらなかったが血圧かスーッと落ちてしまい、慌てて私の所まで「すぐ死ぬ」感覚の連絡をしてきたのです。でも、私は上記の1年8か月前の事もあり、差し迫った異変をそんなに感じて無かったから、前回に比べて落ち着いてました。それでも十分な事をしてやれなかった事もあり、病院に残っていた姉の事もあり、葬儀の時に持たせてやろうと炊き込みご飯を炊いた。ただその日は連絡は無かったから姉に食べさせる事は出来なかったが、翌日治療に来たから持たせてかえらせた。母親の分は、2個の🍙にして冷凍しました。

タイトルの「今年の夏は」と言うより、今年の夏も色々ありました。(笑)

 

「先生、幸せに・・・」と、願われて。①

昭和63年5月頃より、事情あって治療院経営をしながら時間の都合を付けて西条市の某診療所に勤務を始めた。当時、パソコンやワープロ、今で言うIT関連の世界が目覚ましく進みだした頃だ。診療所勤めは、PCソフトを勉強する為や色々と金が必要と成った事から、収入の安定を図っての事だった。

勤めが始まった時、一つだけ心配な事があった。私より2~3日早く就職したソガ看護師から、非常に強い毒気が流れていたのだ。思わず勤め始めたばかりの診療所を辞めようかと思った程で、後々、本当に祟られて酷い目に会いました。
それでも順調に勤務も進んだのは良いが、10月に成り驚天動地の事故が起こった。午後5時を過ぎると、今治の私塾へコンピューター・ソフトを習いに行ってたのだが、授業が終わり帰宅途中、信号をぬけようとしていた所、真っ暗い所から赤信号を無視した老人が私の車に飛び込んだのだ。即死だった。避けようの無い事故であった。当時、この辺りの地方祭の最終日で、満月であったにも拘わらず雲がかかり、自販機の周辺以外は集落の集まった国道も真っ暗だった。で、「この事故の顛末は不起訴処分」。事件性の無い私の責任の無い事故として処理された筈だったのだが、色々と問題が出始めた。

死んだ老人の友人だったと思うが家族ぐるみの付き合いのあった一家が、私の担当していた患者として診療所へ鍼治療に来ていた。おまけに、婦長兼院長愛人だった愛人ハザマ看護師の友人一家。当面は、お互い気を揉みながら黙って仕事をしていが、ソガ看護師が私を妬んで作り話を愛人ハザマに喋り、ハザマがそれを院長に言い、当初は何事も無いままだったのが、業を煮やしたソガが汚い色気で院長子飼いの庭師を言い含めて、私を追い出しに掛かった。

ソガが私を妬んだ理由?、元々庭師達からも評判が良かった私は、当然のように患者や従業員からの受けが良く大事にされ続けてたから。それに、暇な時は事務所に居た関係でレセプトを書くのを手伝ったり、たまに院長が「これ知っとるか?」と言って、当時、話題に成ってた中国の言葉を幾つか持ってきた。私が何気なく反応した途端、その場に居た職員がパッと振り返った。「それって、○○○○じゃないですか」って答えると、院長曰く「やはり知ってたか」と言い、職員からため息が出た。事務長が院長の長男坊だった事もあり、「先生は、暇があったら本を読んでるし、何時も勉強してるからナ~。今迄の院長の質問に全問正解じゃ」と言う位、私の評価が良かった。

それに事務長の嫁さんが新居浜の同業者の姪っ子だった事もあり、ソガの妬みは増大し、私の事実無根の作り話を院長や愛人ハザマに言いだした。それでも私は黙っていると、気違い状態になったハザマが、拗ねた幼児がバタバタと暴れながら口汚く罵りだした。その余りの様子に、事務所関係者や頭から中立の立場を取っていた看護師などが全員振り返ってハザマを「どうしたん、この女」と驚いた様子で眺めていた程。

そしてソガは、世間常識の疎いハザマに常識的な何でも無い事を色々と知恵付けし、自分を知恵者のように振舞った。それを見ていた事務所関係者は「アホクサ~」と無視していたが、それがソガを苛立たせ、院長と愛人ハザマが私に対する嫌がらせを強くするように小細工をした。おまけに、愛人ハザマはソガにオモチャにされ、それを知らずに「曽我さん、それは私が、私が」と曽我を猫可愛がりし始めた。それでも、他の職員や入院の賄をしている院長家族や、入院している患者たちからは私に同情の声が上がり始めていた。

そして、この辺りに成る以前から、院長や愛人ハザマやソガの言動はテープに収められていたのですよ。当然、連中には解らないように録音しているのだが、相手に解らないように録音した私の行為を「盗聴した‼」と言う無知な人が居るのだが、私の行為は会話の当事者が録音したものだから「単なる記録」なのである。仮に盗聴だとしても、何の罰則も無いのである。ただ記録は証拠能力があるが、盗聴には証拠能力が無いのだ。

此処迄、ソガの主導で経営者側と庭師5人程のバカ男達が、私を本格的にイビリ出しに掛かったのは明白だったから、それらの多くの嫌がらせを院長に相談に行ったのを録音していたのだ。当然、パソコン関連の仕事をPCソフト教室の方に頼んでいたし、同級生の女性が新聞関連の仕事をしていから転職の相談もしていた。 こう言った場合、私のような人間はブラック社員と言うのだが、この診療所は前々から評判が悪かったからブラック企業なのである。愛人ハザマ&ソガの愚行を院長に「何とかしてくれ」と相談に行ったが、1週間ほどして呼ばれ、「連中に聞いたら、何もしてないと言う。それまで」と、小学生の相談に教師が木で鼻を括ったような回答しか出来ない程なのだ。頭が悪い証拠であり、仕事や自分の家庭より愛人との蜜月を選んだ訳だ。

そして新しい職場が見つからないまま、愛人ハザマの激しい口撃にプッツンした私は止める決意をした。ただ事務長が、「僕らは結局なんにもして上げられ無かったけど、先生は最後まで腕力に訴える事無く、紳士でとおしてくれた」と言われたがノ~(笑)。しして、その頃に入院してた患者さん達も、老若男女問わず「先生、幸せになってんね・・・」と送り出してくれました。

 

過ぎ去りし夏は

春先から新型コロナにやられて、天候迄もガタガタで、色々なイベントが飛んでいます。夏の高校野球が飛び代わりに違う格好で辻褄を合わせ、プロスポーツは無観客でやったが、やはりコロナ感染が見付かり、予防接種や治療薬の話も出てる割にスッキリとした話が無い。
「県外へは行かないように」と言った通達が出ていたが、多くの場合、普段の長距離は普通列車の旅をするのだが、コロナの影響で車で出掛け県外も当たり前(笑)。罰が当たったのか、[蜂窩織炎]と言うお相撲さんが掛かる病気に成り、[横紋筋融解症]までやって、ついでに[腎不全]迄。
2~3日ほど可笑しかった体調が、某日の昼過ぎから心身共に可笑しくなり、記憶が無かったり夢と現実の境が解らなくなったまま床に転がってました。丁度、姉が治療に来る日に発見されたのだが、二進も三進も行かないから救急車で運ばれて5日程入院。
医師に言わせると「本当は、1週間~週間の入院」だったのだが、自分の病状から察して5日。長くとも1週間で最悪10日と踏んでいたが、医師との交渉で「検査結果に依って日もオーケー」と言う事で、本当に5日で退院してきました。本当は、あと2~3日は居ても良かったんだが、退屈で退屈でと言う割にズットと暑さと疲れとで睡眠不足してたから結構寝てました(笑)。
その病気の後遺症が残ったまま退院してきたが、3か月経った今でも後遺症が残ったまま。救急車で運ばれた病院では内科医が担当だ退院してから2回程 通院して抗生剤が止まったから、掛かり付けの外科に勝手に転移(笑)。薬を出して貰ってるが、症状を事細かく説明し、自分で予測しながら勝手に計画的にするもんだから、随分と遣り辛い患者だと思う。
ガンで入院し、退院してからも真面目に定期検査には行ってた頃、外科の担当医に「この頃、あなた主導の治療に成ってる」って呆れられたが、「エッ‼それって普通じゃないですか?」と言うと、寂しそうに顔をそらしたっけ。でもね、何か月かした頃、大量下血をしたから検査入院をした時、「先生、私が生きてる間、先生がこの病院に居る間は、先生が担当医である事を忘れて貰っては困ります」って、検査に異常も無かったから検査終了直後に退院許可を貰って逃げるように帰ったのだが、帰る前に検査後は麻酔が掛かってるから気を利かした看護師が車椅子を持って来させたのだが、座る気は無いから持ってきてくれた看護師に「私が押してあげるから、乗って」と悪戯してたもんだから、解ってた担当医は随分と楽しそうに笑ってたっけ。

このガンで入院した時も7月~9月の間の約2か月強。あのまま死んでたら、歌の歌詞にある「あの夏の日が無かったら」って曲があるが、本当に一歩間違ってたら同じ事に成ってた。ただ曲の方は命の話ではなく、男女の別れ話の話(笑)。

 

夏・夏・夏

令和2年の夏は、多くの方々は良いイメージが無かったのでは?
昔々 新居浜にも夏がくると、地域限定型のスーパーや全国レベルの百貨店や大型スーパーではクーラーが入り、BGMにハワイアンMusicが流れ始める。ただ頂けないのは、小型スーパーではエアコン・タイプでは無く、本当の水冷式クーラーであったから、天気の良い日でも湿気の高い日はベタッとした冷気がくるから気持ちが悪かった。それでも幾何かの冷気を求めて人々が集まっていた。

夏の音楽も、多様化した為か何時の間にかHawaiian Musicが影を潜めた。最近、CDショップも行かなくなったし、紅白歌合戦も観なく見なくなったし、その分だけ音楽の流行廃りも解らなくなった。それでも、夏の暑さの中でスチール・ギターでHawaiianの曲が流れると、「そうか‼ 夏なんだ‼」(笑)と思う次第。

昔、資格を取って新居浜に帰り病院勤めをしていても、別に彼女も男友達も作る気も無く、独りで喫茶店に入ってると有線が流れている。フト気になる曲が流れると、歌詞の一部を覚えて自宅近くのレコードショップに行き部分覚えた歌詞を伝えると、「この曲だと思う」とレコードを出して試聴させてくれた。「この曲だ」と言うと、ショップの女将さんが、「この曲、少なくとも大ヒット以上の売れ方をする」と言った。理由を聞くと、「貴方が、有線辺りで流れ始めた新曲の問い合わせに来て、今日みたいに即買って帰った曲は後々大ヒットした」そうだ。その時の曲が、「ダンシング・オール・ナイト」。そして、そこそこヒットした曲を遅ればせながら買って帰った曲の場合は、ロングラン・ヒットをしたそうだ。面白い事に、これら証人の居る事実を話しても、「何でお前なんかが‼ どうせ、偶々だろうが‼」と口汚く罵る輩が沢山居たのも事実。妬みの窮まりですね。

そして夏と言えば、お盆と終戦記念日の事を忘れてはいけない。終戦記念日と言えば、昔のテレビ番組では毎年、8月15日を中心に戦争系の映画が放映されていたように思う。丁度、年末には赤穂浪士の映画、夏は戦争モノ以外には幽霊・お化けものが常に放映されていたように思う。

大きな声では言えないが、コロナウイルスの関係で越境して遠くへ行ってはいけないと言うが、県境近くの人達は家を出て5分も歩くとお隣の県と言う事もありえる。これ以上は言わないが(笑)。

だから、私は4WDの軽箱バンに一人乗って、人の少ない村とか観光地とかに行くんです。さすが、脱水症が病気を発症したから水分だけは多目に持っていく。そして、出掛ける時には見知らぬ土地で怪我や病気の再発で入院と成りかねないから、お泊り道具を含めて生活に必要な物をボストンバックに入れて車に積んでます。

ここの所、高知県大川村の白滝の里や、面河渓、からり、等々、少々遠出をしている。で、一つ面白い話。救急車で病院へ運ばれた時、「県境を越えたか?」の質問に、「山へ行ったが、超えては無い」と言うと、「藪の中に入ったか?」と聞かれたから、「藪は入って無い」と言うと、「山へ行ったら藪しか無いだろう‼」と言う発言に、私は言葉を失った。そして、「山の中でも民家や町は随分あるだろう」と言うと、漸くして「アッ、そうか」と言った位だから、発想が随分と貧弱なのね。

終戦記念日と言えば、特に戦争経験者は「戦争は、何があっても二度としてはいけない」と言う。本当だろうと思う。第二次世界大戦時の映像をみると、無残な死に方をしたり、民間人の年寄りや子供達までがボロボロ。平和な時代に生きてきた[戦争を知らない年代]だけに、余計に嫌な気分に成る

唯一つ、皆さんに聞いておきたい事がある。多くの先進諸国は大体、戦争を仕掛ける事は無い。ならは、「軍備も軍隊も要らない」と言い、「自衛隊は、株式会社形式にして国が運営すれば良い」と真面目な顔で訴えた人が居たが、思わず「この人の頭、大丈夫?」と思いました。

話が部分、違う方へ飛ぶかも知れないが御容赦を。ある女性と話をしていて警察の話が出た途端、マジ顔で「警察なんて要らない‼」と言ったから、「何かがあったら、誰に助けを求めるの?普通は警察だろ。貴方はヤクザや半グレやチンピラに助けを求めるの?」って聞いたら、バツの悪そうな顔で笑っていたが・・・。

軍隊も此れと同じで、何かが起こったら、とんでも無い有事がおこった、どうすれば良いのか。自衛隊反対の人は攻め込んできた敵軍隊にボロボロに成る程 撃ち殺されて良いのね。非常時が起こった場合、己独りで生き抜いて行くだけの用意があればそれで良し。

こう言ったタイプの人に限って、平和な時は自衛隊・警察・海上保安署・消防などなどをボロクソに言うのに、何か有事があって行政の出動が遅れると、「お前ら公務員は税金で飯食っとるんだから、命を掛けて国民の命を救うのが職務だろ‼」と言うが、彼等だって税金は払ってるし、平均的には家族も居るのである。

映画・海猿で話題になった海上保安署の事故処理。海上保安官は海の警察官と解っていても、馴染みが無いだけ何をしてるか解らない部分があったが、海猿のように救助活動をしたり、日本海側では中国・朝鮮の違法漁船が発砲するから、海上保安官も打ち返しているのである。一般国民が知らぜざる場所で、小さな戦争状態が起こっているのだ。

小学校高学年の頃より海が好きであった。夏ともなれば、一人で自転車で1時間近く掛る海水浴場へ日参したものだ。もっとも。親戚があったから(笑)。そして、それが高じて海洋少年団に入ったが、新居浜近くで言えば支部があるのは今治だけ。結局、活動の何の活動も無いままに自然退会と成った。本来はスカウトに入りたかったんですけどね(笑)。そして大人に成り気が付くと、海上保安官の娘と一緒に成ってっと言う笑い話。けどね、決して計算付くでした訳じゃ無い。その証拠に、歳取って気が付く位だから(笑)。

テレビでは、「警察24時」と言ったタイトルの警察活動の紹介番組があるが、他の組織は少ない。紹介するにも、色々と難問があるのは解る。

(”^ω^)・・・又。

 

【近藤鍼灸院の健康新聞】㊶「コロナウイルス」

この来コロナウイルスの名前を聞くのも、ボチボチ嫌に成ってきてるのではないだろうか?
以前、平均的な日本人の場合、「コロナウイルスに対する免疫を2種類持ってるから、感染しにくいし重症化しにくい」旨の事を書いた事がありますが、覚えてますか?
免疫2種類と言う話、簡単に説明すると、「現在も感染者が、毎日2桁~3桁のスピードで増えてる割に、重症者や死者が諸外国ほど増えて無い事実。第一、此処二週間程で一気に増える筈も無く、感染してても無症状なり単なる風邪と思って見過ごしてる人が、何かの都合で検査を受けたらコロナだったと言う話ではないかと思う。それだけ無症状とか軽い風邪位の症状だから解らないまま、気に成って検査を受けてみて、初めてコロナウイルスに感染してたと解っただけの人が随分と多いと思う。

感染者はどんどん増えるだろうが、大した事ないままにおわりそうな気がする。ただ、沖縄のコロナウイルスの場合、何カ月前に日本上陸した時とは違った形に変身(笑)している恐れがあるとの報道もある。そうなるとチョット怖い話ではある。

感染者も数字だけ見ていると怖いが、その割に感染者総数にしろ重症者や死者の数が諸外国に比べて異常に少ないのです。今では家庭内感染のクラスターが増えてるから、インフルエンザや風邪扱いの考え方をしている学者もいる。すでに、予防薬&治療薬の取り合いも起こってるそうだから、ボチボチ違う方に進んで終焉を迎えそうに感じるが・・・私の考え方は間違っているだろうか?

 

今年の夏は・・・

新型コロナウイルスと、大雨&高温などの自然災害関係で、昔流で言えば「無茶苦茶で御座ります」と言える程に酷い目に合ってます。
多くが見た目から、「異常な位に元気‼」と言われ続けて居た私も、蜂窩織炎~横紋筋融解症~腎不全を起こし、救急車で運ばれて即 入院‼と言う酷い目に。蜂窩織炎を起こした直接の理由が脱水症状だったらしい(笑)。暑い割に水分と塩分を取って無かったから脱水状態と成り、何処かの小さな傷から細菌かウィルスが体内に入り脱水症状の影響で筋肉組織に入り、骨格筋である横紋筋がやられ、筋肉が溶け出し、それが尿として排泄されかかったから、入院して二日程、小便が濃いこげ茶色になってましたよ。
幸か不幸か身体の自由が効かなく成ったばかりの頃に、たまたま治療に来た姉に発見され、素人では二進も三進もいかなくなり、救急搬送と成ったのです。後日談だが、姉に発見されたのは金曜日の早朝。前日の木曜日夕方に、看護師の患者さんが予約で来たのだが、私が動けない状態みたいだと思いながら帰ったらしく、退院後、治療に来て「先生、どうも調子がわるそうだから救急車を呼んでおこうか」と思いながら、家庭の事が心配で帰ってしまったと言う。その時、既に身体の自由が半分以上失われており、家の鍵を掛けずにウトウトと現実と夢の間を彷徨っていたのです。だから気に成ってた事を、姉に頼んだら「そんな事、一切無かった」と言う話。これらも退院して色々と調べてみると、幻想的な夢を現実と勘違いしてたらしい。

そして退院して35日。右足の下腿と左足首の痛みが残っており、何時良くなるのか解らない状態で、仕事と治療を続けているのです。

 

75回目の終戦記念日

8月15日は終戦記念日である。格好つけてるが敗戦記念日である。呼び方より、国民にとっては国同士の殺し合いなんか無い方が良いのである。「今頃に成って何故、終戦の話?」と思われるだろうが、月遅れの御盆と時期が重なる事と、今の若い人達は昔、日本がアメリカと戦争していた事実を知らない人が多い事。そして、広島と長崎にタイプの違う原子爆弾を落とした事。
アメリカ側に言わせれば、「戦争終結を急がせる為に使った」と言うが、其れなら投下場所は東京のド真中か皇居に落とすべきであった筈。後日談を聞いてると、2種類の原子爆弾と言う新型爆弾の効果を知る為に落としたとしか言いようがないのである。戦争終結の為だけなら、当時の日本の国力から考えたら、軍事施設に多量の通常爆弾を落としただけで結果は出ていた筈なのだ。アメリカの情報力は凄いから、日本軍による真珠湾攻撃から2発の原子爆弾投下で終戦と言うシナリオを書いていた節がある。色々と出ている戦史を読んでると素人の私ですら理解できるのだ。そして深追いした内容をこれ以上書くと、飛んでも無い話に成るので この位にしときます。

そして今回、75回目の終戦記念日として話題に乗せた訳じゃ無い。90幾つで病死した親父が絡んだ話だ。
高知の山奥で貧乏人の子倅として産まれたオヤジは、今で言う中学校をでると山仕事をしていたと言う。しかし、先の見えない山仕事に限界を感じて都会に出る事を決めたと言う。
そこで、東京の歯科医院で住み込みで技工士として働いていた知人に連絡をし、仕事の世話の約束を取り付けて東京に出たのだが、何故かその知人が歯科医院を辞めていた。何の伝手も無いまま東京の木賃宿で思案していると、宿の主人が心配して事情を聞いてくれたと言う。そして事情が事情だけに、知り合いの歯科医院で技工士を募集していた事もあり、話がトントン拍子で進んだと言う。生活と仕事を手に入れたが、勤務を始めた歯科医院の跡取り息子が長期休暇で帰ってくる。それも当時、大学に通っていた学生の流行のような角帽と学生服姿を観て、やはり悔しさのあまり歯科医師を目指す事と成ったらしい。

当時、医科も歯科も大学で学んだ上で国家試験を受け合格しないと免許を貰えなかったが、検定試験を受けて合格すると貰える仕組みがあった。当然だが、大卒と同じく6年制の医学専門学校を卒業したら国家試験がある。学校の名前は、医科〇〇医専&歯科〇〇医専(〇〇医学専門学校)。これも、今で言う学校に入るに必要な学歴が無かった親父は、歯科医院の先生始め色々な世界の実力者の世話に成り、歯科医専に入学。昔は苦学生が多かった事もあり、仕事先で住み込みで生活と仕事と学業を約束される事が多々あったらしい。親父は随分と運が強く、給料は歯科医師がビタ一文使わないように管理してくれ、歳を取ってた親父が煙草を吸いたい、酒を飲みたいと思った時、歯科医師は口を開けた酒瓶、煙草の箱を目の着き易い所に置いて、遠慮無く頂ける仕組みにして頂いてたと言う。そして同級生の中に「何故、この人が医専に?」と言う位の秀才も居て、親父を大事にしてくれたと言う。そうこうしながら歯科医師の国家試験に合格し、免許を取得したと言う。

此処迄は親父の苦労話の紹介に成ってしまった。やがて戦局が悪化し、回り道して歯科医師に成った親父にも赤紙(召集令状)が来たと言う。それも予備兵で。それでも、歯科医師と言う国家資格を持ってるから、比較的、穏やかな戦地へ配属された言う。

面白いのは此処からで、患者さんと言えば、歯が痛いと言う兵隊さんと、それに準ずる人々ばかり。虫歯を削るのだが、昔の事だからモーターの回転が遅いし屑る刃先もボロい。だから削っていても、「痛いだろうナ~」と思いながら治療をしていたと言う。中には、若い下士官辺りが治療椅子の上で直立不動の格好でブルブルと震えながら座っている。流石に、「痛いのと違いますか?」と声を掛けたが、「大丈夫であります‼」と返答する。兵隊としての位は、相手の方が随分と上。方や、親父は歳取った予備兵の歯科医師。それでも、若い兵隊さんは、痛みで汗だくに成りながらでも治療を受けていたと言う。さすが、訓練された兵隊。相手が、地位は低くとも年取った歯科医師。礼節を守った訳だ。でもね、今でこそ痛く無い歯科治療を売り物にしてるけど、薬も道具も無かった時代だけに仕方が無かったと言えば其れまで。だから、脚でも腕でも切り落とさないと駄目な場合、何人もの男たちに体を押さえつけさせ、鋸で骨ごと腕や足を切って落としたと言う時代。私が小学生・中学生位に成って聞いた話だけに、生々しい話ではあった。皆さん、良かったですね~。平和な時代に産まれて。(笑)

そして終戦。オヤジ曰く、「終戦が、後一週間遅かったら、特攻機で飛んでいた」と言う話。そして家に帰ったのが昭和21年位に成ってからだと言ってたが、これも壮絶な話があった。夜寝ていると、寝ていた筈の親父がガバッ‼と起きると母親を俯せ状態にし、「危ない‼ 伏せろ‼ 君は海軍か陸軍か‼」と何度も伏せにさせられたと言う。今で言う、PDSD。命の掛った戦地での恐怖の毎日が、心身共に伸し掛かっていただけに、誰にも責められる話ではないが、母親曰く、「最初は、目の色が尋常じゃ無かったから気が狂ったと思ったけど。「危ない‼」とか「君は海軍か陸軍か‼」と聞かれると、精神の奥底はまだ戦地なのかと思った。でもね、何回位 伏せられただろか」と笑っていた。その親父は、私達子供を伏せさせずに14年程前に逝きました。

本日、令和2年8月14日㈮

 

CMを観る度に反省?

JR東海のTVCMで、[シンデレラ・エキスプレス][Xmasエキスプレス]がありました。山下達郎の綺麗で優しい歌声で[クリスマス・イブ]の曲が流れ、遠距離恋愛の一組の男女がイブに会えた喜びを表現したものだが、歳を取ってこのCMを観ても決して古さを感じさせない名曲である。今頃、古い話を持ち出して何なんだと思われるだろうが、これには深~い理由があるんですネ(笑)。一言で言えば、朴念仁の私は理屈で解っていても。女房が幸せを感じる言葉を伝えなかった事。若い頃、多くの同世代の女性は私を見た目だけで何の感情も無ゴミ以下の人間としか思わなかったし、実際に数人で私に面と向かって口汚い言動を吐き掛けていたから、「人間、特に若いオナゴは表面で綺麗な言葉で何かを言っても、陰・腹の中ではこんな薄汚い心で人を観てるんだ」って充分思い知らされていたから、女房が心から何かを言っても、可愛そうに猜疑心の塊と成っていた私の心に十分届かなかった訳だ。それでも頭の良い努力の人であった女房は、私の猜疑心を十分じゃないが氷解させたのも確か。

色々と諸説ありますが、男性を芯底愛した女性の心情に今も昔も余り変わった部分は無いような気がする。確かに女性には男以上の強いバイタリティーに溢れる部分がある。先日。亡くなった弘田三枝子氏が歌った[人形の家]の歌詞を聞いてると、一人の男を愛した直向な女心が端的に書かれているように思う。反面、ジュディ・オング氏が歌って大ヒットした[魅せられて]、女性のバイタリティ―溢れる本性を表現していると思う。

過去、私は女性に縁が無かったどころか、思春期の頃には其処に居ると言うだけで、口にするのも憚れるほど汚らしい言動で排除され続けてたんですね。だから、[人形の家]の歌詞なんぞ「絵空事の作り話で、一切そんな事あるもんか‼]と言い切っていたし、私に近寄って来る男女の多くが金品目的。よくよく調べてみると、[親父の地位と名誉と財産]が目的のケースが多かったが、結婚話に成ると少し事情が変わっていた。これらを説明していくと紙幅の関係で流石に多くは語れない。そして、こんな私にでも好意を寄せてくれた女性も少なからず居たようなのです。

先ず最初に思い出すのが小学校4年生の時、私のクラスに女子転校生が来た。住友の企業城下町 新居浜と言う土地柄、時期外れに転校生があったのだ。今回はGWを過ぎてからだった。そして私の隣の空いていた席に座る事に。やがて夏休み近くの某日、授業中に彼女が私に話し掛けた。「近藤君、私、近藤君の事が好きよ」と言ったのだ。50数年経った今でも正確に覚えている位だから、私にとっては驚天動地の出来事‼(笑)。突然の事に絶句してたが、理由を聞いてみた。「何で?」って聞くと、「近藤君って、凄く優しいから好き」と言う。だがこの話、結局そのままで夏休み入り、何故か夏休み明けには彼女は転校していたのです。そして、この時の「好きよ」は「好ましいと思ってる」意味なのね。(笑)

高校に入学し、連休明けにブラスバンドに入部した。すると、何人かの新入生女子が入部。「賑やかに成ったナ~」と思う間もなく、夏の甲子園大会の応援で練習に忙殺。と言う内に夏休み成った。そしていきなり夏季合宿と言う名目で笹ヶ峰登山と成った。参加は、全部員の約8割。後から入部した女子部員も5名程参加している。

登山初日は、集団で乗り換えの必要な路線バスを使うから、新居浜駅前を午前8時集合で出発して山小屋到着は午後3時過ぎ。到着後は、一休みした後は6食の人数分だから、当然の如くカレ~(笑)。二日目は特別する事も無い。部屋でトランプしたりゲームばかり。飽きた私は散歩がてら近場の山歩きに出掛けようと玄関先に行くと、一人の女子部員が後を追ってきて開口一番、「近藤君、誰か付き合っている人が居るん?」「イイや。この体型じゃ嫌われて、誰も真面に相手をしてくれん」「・・・誰か好きな人が居るん?」「それも無し。どうしてそんな事を聞く?」「・・・ウウン、チョットね・・・」と、そのまま何処かへ行ってしまった。だが山って所は、山小屋を出ても行く所もする事も無いから随分と暇である。部屋に戻ると寝てしまった。三日目は、早目の昼飯に最後のカレ~を食べてしまい、借りていた大鍋を綺麗に洗い、午後1時には山小屋を後にした。

下山後、私に「彼女は居るか」[好きな人が居るか」と聞いてきた部員が、私に特定の女性が居ないのが解ると、色々と積極的にお誘いがあった。映画に誘われたり、遊びに行ったり、用事が無いのに家まで訪ねてきたり、卒業してからはアパートの住所は知らせて無いのに手紙がきた。家に連絡して聞いてみると、母親が教えたと言う。大学から鍼灸学校に代わっても、正確に手紙がきていた。やはり実家の方へ問い合わせたみたいだ。その内、長期休暇で帰省すると家まで訪ねてくる。某日、「私、あんたの事を好きだったんよ。大三島の演奏会から帰ってきて学校でウロウロしてた時、手に持ってた封筒、あんたに渡すべき持ってたんだけど」と、告白された。

考えてみると思春期真っ只中の頃は、多くの女性に色白で太目の体型で忌み嫌われ、少し歳取ったら一方的に言い寄られてた部分がある。登山の時の女性に告白された頃、何人か足繁く当家に出入りしていた女性が居た。だが過去の経験から、相手の気持ちを確かめる事も無く時はすぎたのです。

鍼灸学校時代、何時も食事に行ってた食堂の娘さんにコンサートに誘われたりと、小さなお誘いが随分とありましたが、どれも成就せず。やがて資格を取って病院勤めを初めても、患者さんから結婚の世話話はくるが多くが不発。ただひとつだけ。同い年の女性があってみたいと言うので会うと、お互いが気に入ってたのだが、相手方の親族から財産目当ての話が出たのがでて、病院の事務長に「ウチの娘と結婚しろと言ってくれ‼」と言う話が耳に入り、女性本人から世話をしてくれた方に「断ってくるように、言って下さい」と言われたらしいが、本人同士が気に入ってるから自分達で断れないまま、世話をしてくれた人が断ってくれた。

でもね私が何時も言ってた「私はモテた試が無い‼」ってフレーズ、実を言うと病院勤務の時は年頃であった関係で色々な方から話が舞い込んでいたが、多くが「太いから嫌‼」「実家がデカ過ぎるから駄目‼」と言った理由で、その総数が80以上で、実際に見合いになったのが10回位。中には、私を騙して女に会わせたのが慣れて大騒ぎに成った事もあるし、黙って放っておくと、やはり「太い‼」理由が殆ど「鍼灸師である事」がネックに成ってました。

やがて、「私は結婚が出来ない‼ 縁が無い‼」と心の中で決めてしまい、話があっても気乗りしないまま適当に過ごしていた。ある夏の土曜日、当時、市内でたった一つあった百貨店前のバス停前で赤信号で待ってると、ドアが叩かれた。雨の中を誰だろうとみると、6歳若い従妹。乗せて帰れと言うから急いで乗せて発車したのだが、彼女も何故か縁遠い。

「帰り急ぎしてるか?」と聞くと、「急いで無い」と言う。「ついでじゃ、コーヒーでも飲みに行くか?」と聞くとOKの即答。だが、土曜夜市がある日だが、大雨だけに百貨店・スーパー・ファミレス・喫茶店の類は客で一杯。漸く国道のファミレスが空いていたから入ったのです。話をしていると、年頃なのに彼氏が居ないと言う。私も逆に聞かれたが。自慢じゃないが、縁遠くて付き合いのある女性は居ない。ああだこうだと言ってる間に、明日の日曜日にデートの運びと成った。それも従兄同士で(笑)。

何度目かのドライブで思ったのが、お互い相手に無縁の者同士。従兄同士なら結婚できるし、この娘なら気性も解ってるしと変な所で妥協案を出したが、その後、女房との話が出て、それに娘を私の嫁にと売り込みに来た一家が出現し、私の人生最大のモテ期だったように思う(笑)。

御見合いに成る前から80幾つもの潰れた話を持ってるだけに、「私はモテ無い男」と言ってると女房曰く、「お父さん、その話はせんといて。私が、そんなに魅力の無い男を選んだと思われるから止めて」と言われたのには、流石に反省。でもね、結婚式の時、我々新郎新婦が話をしていた時、側を通り掛かった元勤めていた岩崎病院の副院長(多分 今は会長職か)の星加晃医師が、女房に「何でこんなヤツを選んで一緒に成ったん」と、慇懃無礼な顔でヘラヘラと笑いながら言い、私達二人の顔を馬鹿にした顔で見てたっけ。それと、病院勤務の頃に時々話をしていた検査技師の近藤と言う奴も、いきなり「誰がオマエみたいな奴の所に来るんぞ‼」と言うし、物療をしてた誰だっけ、此奴も人を舐めた事を言ってたから、ある日突然死してやんの。

JR東海のCMソングの話が、随分と違った方向へ進んだが、今考えると、こう言った不遇と思われる色々な出来事があったから、女性が私との結婚を望んで言って来ても、素直には受け入れられなかったのも事実なんですよ。だから、結婚前から女房は私に愛情を注いでくれたが、それに応え切れなかった分、可愛そうな事をしたと猛反省している。

結婚前 まだ交際時期だったが、車で広島へ行く事になり、便を借りて呉の友人を誘った。所謂Wデート状態。四人で野呂山へ行ったのだが、友人曰く、「二人を見てたら彼女、お前と結婚したがっているのが丸解り。してくれって言ってるんなら、彼女なら迷う事は無いぞ。今は適齢期の男の方が多いから。いま逃すと結婚は諦めないといけないかも」とまで言われた。

そう言えば、星加医師と同じように、「誰がお前と結婚したがる‼」「お前みたいなヤツが、結婚できるか‼」と言う意味合いの事を毎日毎日、平気で私に口汚く罵りに来た連中が多かった。その殆どが岩崎病院関係者と出入りの業者。後々、病気をして休職中だった看護師の女性が岩崎病院の悪い噂を聞いており、確認で聞かれたから、色々と被害にあった私や患者や見舞客の事実の話をすると、「薄々は聞いてたけど、まさか其処まで酷いとは‼」って吃驚していたですよ。

そんな事もあり、岩崎病院の看護師や女性職員連中の言動、結婚話だけで味噌糞に言って断ってきた女性の言動で、女性に対する意識が悪く成っている上に、所謂 二人の姉や母親を見ていると醜い女の本性を見せ付けられたような気がする。そして、それらを取り巻く頭の悪い男達の言動に辟易しているのだ。

酷い時には、高校時代にチョット入部していたコーラス部から新年会をするとお呼びがかかった。「珍しいな」と思って行くと、やはりハメられた。新年会と言うものの、来ていたのは三人だけ。私を入れて四人。悪い予感が当った上に連中の対応が、「お前に用事は無い。お前の別嬪のお姉さんを連れてくるのを楽しみにしていたのに、何故、連れてこなんだ」と、私を責める話。「結婚してアメリカへ行ってるし、今年は帰って来ないと言う話だったし、第一、高校時代のコーラス部などから新年会など高校時代の集まりには出たく無いから断っといてくれ」と言われてたから、その旨を伝えると、まるで私の勝手な独断で呼ばなかった言い方をする。その様子は、三人で私を罵り始めたのだ。結局、挨拶も漫録に済まないままに、参加したく無いと言う姉を連れて行かなかった私を吊るしあげたのである。結局その会は散会状態。その日の夜、直接私に声を掛けた阿部と言う男から電話があり、「来年もやるから出てくれ」と言ったが、「アホか‼お前ら束に成ってあの言い種はなんじゃ。アレはワシに用事があったんじゃ無く姉に用事があったのが丸解りじゃろが。舐めるなよ‼。特にゴーヤン、1級上の合田が姉に岡惚れしくさって、ワシを出汁に呼ぼうとしたんだるが‼。どう言っても、あんな扱いされて行く気は無いから金輪際、電話もかけてくるな」と言って電話を切った。

一組なりの男女が、好きあって乳繰り合おうが何をしようが勝手だが、降らん事で私を巻き込み私をボロクソに扱った分だけ、ますます女性が絡んだ事に拘わりたく無いと感じるのです。最後に一言。私に関係の無い男女の営みや出来事には私を呼ばないでください。(笑)

 

親子の情&人間同士の情って何だろう。

二人の子供達が成人し、娘は結婚をして二人目の子が産まれ、息子は大学を出てから私との音信が途絶え、生きてるのやら死んでるのやら。連絡をしても返信が無いから、タマ~に戸籍謄本を取ってみても、死んだと言う情報も無く結婚したと言う情報も無い。
ある人に話したら、「息子さんを探しに行かないんですか!?私なら、解ってる範疇の事を元に探しに行きますよ‼」と言うが、それは平均的に大きなトラブルの無い家庭での話と考えている。

私の父親は娘二人の挙句、「近藤家の跡取り」としての大望の私と言う男子が産まれたから狂喜したらしい。だから、小学生時代に何人かグループで友達が遊びに来て、庭木に登って遊んでると、「危ないから降りなさい‼」と怒鳴る。私も友人達の手前 幼子のように扱われて嫌気が指し、「皆も登ってるから大丈夫‼」と言うと、「皆はどうでも良い。近藤家の跡継ぎのお前が怪我をしてはいかんから、降りなさい‼」と怒鳴る。そう成ると遊びに来ていた友人達は良い気がしない。親父から言ったら「他人の子供が怪我しようが死のうが関係無い」ような言い種を目の前でされたのだから、誰だって良い気はしない。
その内、友人達はゾロゾロと帰り二度と来る事は無いし、タマ~に誘われて誰かの家に遊びに行っても、部屋で遊んでいると、「外で遊ぶか」と成って靴を履きだすと、連中は話が出来て居たのか私を置いといてドロドロと何処かへ走って逃げたのである。結局、報られた私は見つける事が出来なかったから帰りました。

私は2年保育の保育園に行ってたが、近所の多くの家庭では1年保育が多かった時代だ。
二年目の春、当家の2~3件隣の合田と言う靴屋の子供が入園してきた。私の顔を見ると「二年目か」と言い、「保育園が終わったら遊びに来いや」と誘われ、昼食が終わって遊びに行った。其処までは良かったのだが、その子の父親が帰って来て、一緒に遊んでる同級の子を呼んだ。暫くして、私の所に来て座っていたが、いきなり「お前、帰れ」と不機嫌な顔で言う。「何で、お前が来いって言ったから来たのに」と言うと、「お前んちは金があるから遊んだらん。帰れ‼」と言う。男親の妬み嫉みで遊んでいる子供達の間を引き裂いたのだ。似た事が度重なる。

小学校に上がり、初登校の朝、独りで学校へ向かった。当家から50m程先に木花鮮魚店と言う小さな店があった。行きは、「行き夜で~」と気軽に声を掛けてくれたが、下校時に成り店の前を通り掛かった私に「オイデオイデ」をする。何だろうと近寄ると、新居浜弁独特のイントネーションで「あんた所はエ~ネ~金が有って。ウチら金が無いけん中学出たら集団就職で夜行の汽車に乗せて都会へ行かないけん」と言う。木花鮮魚店には私と同い年の女が居たが、いい大人が年端も行かぬ子供に吐く言葉か‼だが、新居浜と言う土地柄、住友と言う企業城下町だから妬み嫉みが酷いのである。

だから角野(すみの)校区は山手に属して新居浜の先駆者的な色合いを持ってたから、教師達も子供の親の職業を妬んで酷い扱いをしてた。酷いのに成ると、地元の高校出で地元採用の住友の職員が若くして主任に成ろうものなら、教師たちが最敬礼をしていた程。幼心に「アホかいな‼」と思ってまし。

当家の二人の子供達は、大学出るまでに反抗期はあったが、子供達から縁をきるような言動に出るとは思わなかった。何かあって連絡しても無しの礫‼ 幾ら連絡しても何の返答返信も無い限り、ワザに探しに行く気も無い。そこに親子の絆なんか感じられない。特に息子は、私の父親が死んだ時は高校生位だったから泣きながら葬儀に出たが、女房の御両親が亡くなった時は来てないのである。何を考えてか知らないが、そこに人の情なんて感じないのである。

少々話が変わるが、私の母親の意向で学校の授業優先で爺ちゃん婆ちゃんの葬儀に私を参加させなかった。高校生に成った頃、何を思ったか私の母方の祖母が亡くなった時は葬儀に出ろと言う。葬儀が終わって居週間ほどは母親と話をしていて祖母の話が出ると涙が出ていた。ところが私の二人の姉達は「婆ちゃんが死んだって、なんで泣きよるん。可笑しいわ~」と言ってヘラヘラニタニタ笑ってるのである。この二人、年取って何かの用事で私の知人と話をする事があった。すると、その知人曰く、「お姉さま方、普通の話をしてても心が通じないと言うか通わない・・・」と言う感想を言ってたが、何と言うか・・・。

表向きは上品そうに喋るが、何事においても自分達が最上級の人種で、弟の私にでさえ、とことん見下した口調で嫌らしい話をするのである。だから、他人様なら二度と側へ寄るのも嫌と言う事に成る。多分、私も同じ血を受け継いで、同じ環境で生活していた分、随分と影響を受けていると思う。と、色々と書いていると、子供達が縁を切るように私から離れて行っても仕方が無いのかも知れない。

考えると私の両親が、人間として他人様への心遣い気遣いの姿勢が全く成って無かったから、人間としての教育が成って無かったのだと思う。だからその辺り、70歳近く成ったら誰も教えてくれないから、いまだにシンドイ思いで勉強してますよ。情けないけど。今では素晴らしい人材と巡り合い、ボチボチと生活しています。